W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 選外佳作 ごめんね/仲田敦子
選外佳作
「ごめんね」
仲田敦子
「ごめんね」
仲田敦子
泣き疲れて寝た理生の頬を、薄明りの中でそっと撫でた。もぎたての桃のように産毛が生えそろっている頬に、涙のあとが河川のように残って乾いている。今日はせっかく八歳の誕生日だったのに、可哀想なことをしてしまった。理生は幼い心でわたしの孤独を感じ取っていたのかもしれない。息子の誕生日に買ったホールのケーキの四分の三が残ってしまって、それに大きめのラップをかけて冷蔵庫にしまう時に思わずわたしの心をよぎった、暗い感情を。こんな日なのに、夫は帰ってこない。
理生と一緒に風呂に入り、何度も二人でハッピーバースデーを歌った。理生は嬉しそうだった。理生のそばにはわたしがいて、わたしだけがいて、それは理生にとっては自然で、少しも傷ではなかった。傷を負っていたのはわたしのほうだ。風呂上がりに二人で毛布にくるまって、理生の気に入りの絵本を読み、二人で話した。どんな状況であれ、わたしたちはそのひととき幸福感に浸っていた。
「りおくん、もう八歳なんだね、早いね」
「べつに、早くなんかないよ」
小学生になって理生は、少し生意気な口のきき方をするようになっていた。それがかっこいいと思っているのだ。
「吉田先生、優しい?」
「普通。時々怒るよ」
「理生ももうすぐ三年生か……。あと十年もしたら、どこかの大学に入って、お家を出て行っちゃうんだろうな」
その時だった。理生が不意にこちらに背中を向けて、二人でくるまっていた毛布を引っ張って頭からかぶった。背中が震えている。
「理生、どうした?」
「かあちゃん、おれは、この家を出て行かない。ずっとかあちゃんと一緒にいる。かあちゃんを一人にはしない」
しまった、と思った。
「ごめん、理生。そうだね、ずっと一緒にいよう」
理生は、声を出さずに、うなずいた。わたしは毛布の上から彼の肩を抱いた。
そして理生は、三十六歳になった。今もこの家に住んでいる。理生は優しい青年になり、優しかったから、初めて就職した会社で疲れ果てて、その後に二度転職し、今は不安定なパートの仕事をしている。結婚はしていない。世間的に見たら、理生が成功したとは言えないかもしれない。けれど、自分の食べる分の給料をもらって穏やかに過ごす毎日は、彼にとって悪いようには見えない。それでも一つ、気がかりなことがある。それは、あの日の約束のことだ。理生はあの日の約束を守ろうとしているのではないか。穏やかな日曜日の午後、ベランダからの逆光に照らされすっかり大人になった理生のシルエットを見たとき、ふとそんなことを思った。
「理生、わたしのことは、心配しなくてもいいのよ」
思わずわたしがそう言うと、理生は読んでいた本から目を上げて不思議そうにわたしを見た。思い過ごしならいい。そう思った。
「母さん。ジャカルタに行こうと思うんだ」
ある日、理生が言った。
「ジャカルタ……。インドネシアの?」
「うん。数年前にヒロキに誘われて、インドネシア語と英語、ずっと勉強してたんだ」
動揺を押し隠しながら、わたしは言った。
「理生は、理生の好きに生きればいい。応援する」
理生はにっこりと笑って、席を立った。そのまま立ち去ろうとして振り返った。
「母さん、ごめんね。約束守れなくて」
「何言ってるの」
一人になってから、わたしはわたしに泣くのを許した。涙は甘い味がした。
(了)
理生と一緒に風呂に入り、何度も二人でハッピーバースデーを歌った。理生は嬉しそうだった。理生のそばにはわたしがいて、わたしだけがいて、それは理生にとっては自然で、少しも傷ではなかった。傷を負っていたのはわたしのほうだ。風呂上がりに二人で毛布にくるまって、理生の気に入りの絵本を読み、二人で話した。どんな状況であれ、わたしたちはそのひととき幸福感に浸っていた。
「りおくん、もう八歳なんだね、早いね」
「べつに、早くなんかないよ」
小学生になって理生は、少し生意気な口のきき方をするようになっていた。それがかっこいいと思っているのだ。
「吉田先生、優しい?」
「普通。時々怒るよ」
「理生ももうすぐ三年生か……。あと十年もしたら、どこかの大学に入って、お家を出て行っちゃうんだろうな」
その時だった。理生が不意にこちらに背中を向けて、二人でくるまっていた毛布を引っ張って頭からかぶった。背中が震えている。
「理生、どうした?」
「かあちゃん、おれは、この家を出て行かない。ずっとかあちゃんと一緒にいる。かあちゃんを一人にはしない」
しまった、と思った。
「ごめん、理生。そうだね、ずっと一緒にいよう」
理生は、声を出さずに、うなずいた。わたしは毛布の上から彼の肩を抱いた。
そして理生は、三十六歳になった。今もこの家に住んでいる。理生は優しい青年になり、優しかったから、初めて就職した会社で疲れ果てて、その後に二度転職し、今は不安定なパートの仕事をしている。結婚はしていない。世間的に見たら、理生が成功したとは言えないかもしれない。けれど、自分の食べる分の給料をもらって穏やかに過ごす毎日は、彼にとって悪いようには見えない。それでも一つ、気がかりなことがある。それは、あの日の約束のことだ。理生はあの日の約束を守ろうとしているのではないか。穏やかな日曜日の午後、ベランダからの逆光に照らされすっかり大人になった理生のシルエットを見たとき、ふとそんなことを思った。
「理生、わたしのことは、心配しなくてもいいのよ」
思わずわたしがそう言うと、理生は読んでいた本から目を上げて不思議そうにわたしを見た。思い過ごしならいい。そう思った。
「母さん。ジャカルタに行こうと思うんだ」
ある日、理生が言った。
「ジャカルタ……。インドネシアの?」
「うん。数年前にヒロキに誘われて、インドネシア語と英語、ずっと勉強してたんだ」
動揺を押し隠しながら、わたしは言った。
「理生は、理生の好きに生きればいい。応援する」
理生はにっこりと笑って、席を立った。そのまま立ち去ろうとして振り返った。
「母さん、ごめんね。約束守れなくて」
「何言ってるの」
一人になってから、わたしはわたしに泣くのを許した。涙は甘い味がした。
(了)