W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 佳作 約束のイコール/安乃澤真平
「約束のイコール」安乃澤真平
目の前にいるこの中学生は、今まで一体何をしてきたんだろう。中学三年生の十一月に塾を探し始めて、これから受験勉強だなんて無謀にも程がある。塾で長年勤めて、いくら受験のプロとは自負していても、さすがに合格のイメージが浮かばないでいた。
なにより問題はその態度だ。頑張ります、と調子のいいことは言っているけれど、意識は終始スマホに向かっているようだった。
正直、こちらから願い下げだ。冬期講習を目前に控える大切な時期だ。この生徒の振る舞いが他の受験生のやる気に悪影響を及ぼすことは目に見えている。塾に入りたいと言われても、塾の秩序を考えればどうしても断りたい家庭だった。
でも、どうしよう。僕は親子を前にして、営業計画の数値を思い返していた。売上目標の達成まであと五十万円ほどだったはずだ。今年から成果報酬の仕組みが変わり、売り上げに応じてボーナスが上がる。それで今年の夏のボーナスは二百万円にもなった。
二百万円。その甘美な響きが魔となって僕に差し込んでしまった気がする。冬のボーナスでも、なんとしてもその大金をつかみ取りたかった。
僕は親子の前から一旦離席して、事務席に戻った。五十万円は決して届かない数字ではない。僕は電卓をたたき、その生徒が合格するために必要な教材と毎月の授業回数、そして来月から始まる冬期講習代などを算出した。千単位、万単位の数字が次々と表示されていく。この家庭だけで五十万円なんて優に超えるだろう。
別にこの家庭を食い物にしているわけではない。あくまでもあの生徒の合格のためなんだ。必要なものは何でも用意する。それがプロとしての塾人なんだ。
何回そう自分に言い聞かせたろう。電卓を打つ僕の指は、最後のイコールを押そうとはしなかった。
入試まであと三ヶ月しかない。今まで何もしてこなかった生徒だ。今から勉強を始めても受かる見込みなんてない。そんな生徒にこれほどの学習量と金額を提示してなんの意味があるんだろう。それこそ、金を出してもらうだけの金づる扱いなんじゃないか。それならいっそのこと他の塾に行ってもらった方が僕としては気が楽だった。
事務席に座っていてもそんな堂々巡りをするだけだった。僕はこれ以上待たせるのは悪いという思いだけで、親子の前に戻った。
入会ならそれでもいい。でも入会されては困るんだ。心が荒れている。そしてその心の波は、生徒の横に座っている父親の一言で一層高さを増した。
「で、合格できるの? この子」
僕が提示した授業計画と金額を見て、父親が言った。お任せくださいと言ってやりたい。それはプロとしての意地だ。喉の奥からそう突き上げてくる。
でも僕の口は、僕自身よりも冷静だった。
「お約束は、できません」
教育のプロが一体何を言っているんだろう。合格させることが仕事だ。約束できないだなんて、どの口が言っているんだろう。でも僕の口はとどまるところを知らなかった。
「必要なものは全てこちらでご用意致します。ですからあとは……」
「あとはこの子次第ってことですか?」
計画が、音を聞くように崩れていくのがわかった。僕は電卓に手をかけ、クリアのボタンに指を置いた。
その時だった。
「気に入った」
僕は思わず、えっと声を出してしまった。
「いやー、他のどこの塾に話を聞きに行っても調子のいいことしか言われなかったんですよ。でもお兄さんは正直に言ってくれたからさ、信頼できる」
僕はすぐさまボタンから手を離し、電卓をつかむと親子の方へ反転させた。そして僕は何事もなかったかのように最後の一打をはなった。
お兄さんに全部任せるよ。そう言ってくれた父親の期待に応えるんだ。約束はできないとは話の流れでもう一度言った。でも入会の契約を交わす以上は最善を尽くさなければならない。どうしたって合格させなければならない。約束はできないという一言が、一層僕に合格の約束を言付けている気がしてならなかった。
今でも耳にこだまする。その約束のイコールは、今までで一番重たく、鈍い音だった。
(了)
なにより問題はその態度だ。頑張ります、と調子のいいことは言っているけれど、意識は終始スマホに向かっているようだった。
正直、こちらから願い下げだ。冬期講習を目前に控える大切な時期だ。この生徒の振る舞いが他の受験生のやる気に悪影響を及ぼすことは目に見えている。塾に入りたいと言われても、塾の秩序を考えればどうしても断りたい家庭だった。
でも、どうしよう。僕は親子を前にして、営業計画の数値を思い返していた。売上目標の達成まであと五十万円ほどだったはずだ。今年から成果報酬の仕組みが変わり、売り上げに応じてボーナスが上がる。それで今年の夏のボーナスは二百万円にもなった。
二百万円。その甘美な響きが魔となって僕に差し込んでしまった気がする。冬のボーナスでも、なんとしてもその大金をつかみ取りたかった。
僕は親子の前から一旦離席して、事務席に戻った。五十万円は決して届かない数字ではない。僕は電卓をたたき、その生徒が合格するために必要な教材と毎月の授業回数、そして来月から始まる冬期講習代などを算出した。千単位、万単位の数字が次々と表示されていく。この家庭だけで五十万円なんて優に超えるだろう。
別にこの家庭を食い物にしているわけではない。あくまでもあの生徒の合格のためなんだ。必要なものは何でも用意する。それがプロとしての塾人なんだ。
何回そう自分に言い聞かせたろう。電卓を打つ僕の指は、最後のイコールを押そうとはしなかった。
入試まであと三ヶ月しかない。今まで何もしてこなかった生徒だ。今から勉強を始めても受かる見込みなんてない。そんな生徒にこれほどの学習量と金額を提示してなんの意味があるんだろう。それこそ、金を出してもらうだけの金づる扱いなんじゃないか。それならいっそのこと他の塾に行ってもらった方が僕としては気が楽だった。
事務席に座っていてもそんな堂々巡りをするだけだった。僕はこれ以上待たせるのは悪いという思いだけで、親子の前に戻った。
入会ならそれでもいい。でも入会されては困るんだ。心が荒れている。そしてその心の波は、生徒の横に座っている父親の一言で一層高さを増した。
「で、合格できるの? この子」
僕が提示した授業計画と金額を見て、父親が言った。お任せくださいと言ってやりたい。それはプロとしての意地だ。喉の奥からそう突き上げてくる。
でも僕の口は、僕自身よりも冷静だった。
「お約束は、できません」
教育のプロが一体何を言っているんだろう。合格させることが仕事だ。約束できないだなんて、どの口が言っているんだろう。でも僕の口はとどまるところを知らなかった。
「必要なものは全てこちらでご用意致します。ですからあとは……」
「あとはこの子次第ってことですか?」
計画が、音を聞くように崩れていくのがわかった。僕は電卓に手をかけ、クリアのボタンに指を置いた。
その時だった。
「気に入った」
僕は思わず、えっと声を出してしまった。
「いやー、他のどこの塾に話を聞きに行っても調子のいいことしか言われなかったんですよ。でもお兄さんは正直に言ってくれたからさ、信頼できる」
僕はすぐさまボタンから手を離し、電卓をつかむと親子の方へ反転させた。そして僕は何事もなかったかのように最後の一打をはなった。
お兄さんに全部任せるよ。そう言ってくれた父親の期待に応えるんだ。約束はできないとは話の流れでもう一度言った。でも入会の契約を交わす以上は最善を尽くさなければならない。どうしたって合格させなければならない。約束はできないという一言が、一層僕に合格の約束を言付けている気がしてならなかった。
今でも耳にこだまする。その約束のイコールは、今までで一番重たく、鈍い音だった。
(了)