第9回「小説でもどうぞ」選外佳作 小さな冒険者たち/翔辺朝陽
第9回結果発表
課 題
冒険
※応募数260編
選外佳作
「小さな冒険者たち」
翔辺朝陽
「小さな冒険者たち」
翔辺朝陽
電車は間もなく会社の最寄り駅に着こうとしていた。先頭車両に座っていた僕の胃が、次第にキリキリと痛み出す。会社に戻ればきっと会議室に缶詰めにされて、今期の営業目標達成に欠かせない案件が失注したことについて、狐目の上司からパワハラまがいの叱責を受け責任を押し付けられるに違いなかった。
そしてその後は、お決まりの膨大な報告書の作成作業が待っている。狐目は部長に報告するため、部長は本社の重役に報告するための自分にとってはどうでもいい彼らの責任逃れの報告書を延々と書かないといけない。書いては直し、書いては直し、嘘で固めた報告書を書くのは、いつも決まって契約社員のこの僕なのだ。
それでも入社した時期はちょうどバブル崩壊後の就職氷河期末期の頃で、同世代がほとんど派遣などの非正規に甘んじたのに対して、僕はまだ同じ非正規でも契約社員として入社できたので恵まれていると感じていた。最初の頃は仕事も面白かった。だから少々ブラックなことにも耐えてこの十五年頑張ってきた。
しかしここに来て、どうでもいい仕事を延々とやらされることが増えた。そのため残業もここ数ヶ月百時間を超えているが、会社は法律で規定された以上の残業を勝手にカットし、その残業代も払おうとしない。文句を言えば雇止めを匂わされる。もう四十を目の前にして結婚も出来ず、ずっとこのままでいいのかと真剣に考えるようになっていた。
「ねえ、このまま終点まで行ってみないか?」
右側から少年の声がして顔を上げると、有名な進学塾の鞄を背負った小学生と思しき男の子が二人、運転席が見える窓から前方を見やりながら何やら話しているのが目に入った。
「やばいよ、俺、金持ってないし」
「大丈夫だよ。終点からまた折り返して戻って来ればいい。ねえ、行ってみようよ」
少し背の高い方の少年がしきりに誘っている。どうやら彼らも次の駅が降りる予定の駅のようだった。おとなしそうな背の低い方の少年は迷いながらも押し切られそうな感じだ。
少年らの様子をじっと見ていた僕は、その時なぜだか彼らの小さな冒険に付き合ってみたい気になった。会社に戻りたくなかったのは確かだが、彼らの冒険の行方を見届けたくなったのだ。思えば自分も昔同じような経験をしたことがあったのを思い出していた。
自分も小学生の頃、進学塾に電車で通っていた。母親が教育熱心の厳しい人で、僕は小さい頃から母親にとっての「いい子」をずっと演じてきた。ある日電車の先頭車両から前方を見ていたら、降りる駅の先にも線路はずっとつながっているのを見て無性にこの先に行ってみたくなった。すぐに母親の怖い顔が浮かんだが、沸き上がった冒険心に抗うことができなかった。一駅、二駅と先に行くにつれて心拍数が指数関数的に上がっていくのを感じた。怖かったけどなぜか気持ちよかった。自分が少し大人になったような気がした。
日を重ねるごとに先に行く駅の数が増えたが、さすがに終点までは行ったことが無かった。でも彼らは今まさに、それに挑戦しようとしている。応援したい、見守りたい、そして何より自分も彼らと一緒に終点まで行ってみたい、そう本気で思う自分がそこにいた。
電車が会社の最寄り駅に着いたが、少年たちは降りようとしなかった。自分も意を決してドアが閉まるまでじっとそのままやり過ごす。少し胸がざわついたが、いつの間にか胃の痛みの方はすっかり感じなくなっていた。
電車は一駅、二駅と先に進んでいく。降りるべき駅を乗り越してから少年たちは急に無口になった。二人ともきっと指数関数的に上がってきた己の心拍と必死に闘っているに違いない。思わず頑張れと心の中で声が出る。
五、六駅過ぎた頃に携帯が震えた。狐目の上司からの電話だった。少し迷ったが無視を決め込んだ。その後も伝言やメールがしつこく入ってきた。あまりにしつこいので携帯の電源を切った。なぜだかすっきりした。
十駅ほど過ぎた頃、突然海が視界に飛び込んできた。雄大な海と夕陽に染まる茜色の空が、心のあちこちにできている引っかき傷に優しく沁み渡る。真空パックで閉じ込めていた感情が一気に解き放たれ目頭が熱くなった。
乗り越してから一時間近くが経った。少年たちは一度も途中で降りようとしなかった。いよいよ次が終点だ。今頃会社では自分が帰ってこないことで上へ下への大騒ぎだろう。ゾクゾクするような解放感がたまらない。
終点に着いた。電車を降りると二人の少年は堰を切ったように上りホームに向かって駆けだしていった。よく頑張ったな、そしてありがとうと心の中で少年たちに感謝する。
自由の風が心地よい。降りると狐目に今日の不帰社と明日有休のメールを打った。たまには上司たちで報告書を書いてもらおう。
『熱海』と書いてある駅看板を確認すると、僕は早速携帯で温泉宿をチェックした。
(了)
そしてその後は、お決まりの膨大な報告書の作成作業が待っている。狐目は部長に報告するため、部長は本社の重役に報告するための自分にとってはどうでもいい彼らの責任逃れの報告書を延々と書かないといけない。書いては直し、書いては直し、嘘で固めた報告書を書くのは、いつも決まって契約社員のこの僕なのだ。
それでも入社した時期はちょうどバブル崩壊後の就職氷河期末期の頃で、同世代がほとんど派遣などの非正規に甘んじたのに対して、僕はまだ同じ非正規でも契約社員として入社できたので恵まれていると感じていた。最初の頃は仕事も面白かった。だから少々ブラックなことにも耐えてこの十五年頑張ってきた。
しかしここに来て、どうでもいい仕事を延々とやらされることが増えた。そのため残業もここ数ヶ月百時間を超えているが、会社は法律で規定された以上の残業を勝手にカットし、その残業代も払おうとしない。文句を言えば雇止めを匂わされる。もう四十を目の前にして結婚も出来ず、ずっとこのままでいいのかと真剣に考えるようになっていた。
「ねえ、このまま終点まで行ってみないか?」
右側から少年の声がして顔を上げると、有名な進学塾の鞄を背負った小学生と思しき男の子が二人、運転席が見える窓から前方を見やりながら何やら話しているのが目に入った。
「やばいよ、俺、金持ってないし」
「大丈夫だよ。終点からまた折り返して戻って来ればいい。ねえ、行ってみようよ」
少し背の高い方の少年がしきりに誘っている。どうやら彼らも次の駅が降りる予定の駅のようだった。おとなしそうな背の低い方の少年は迷いながらも押し切られそうな感じだ。
少年らの様子をじっと見ていた僕は、その時なぜだか彼らの小さな冒険に付き合ってみたい気になった。会社に戻りたくなかったのは確かだが、彼らの冒険の行方を見届けたくなったのだ。思えば自分も昔同じような経験をしたことがあったのを思い出していた。
自分も小学生の頃、進学塾に電車で通っていた。母親が教育熱心の厳しい人で、僕は小さい頃から母親にとっての「いい子」をずっと演じてきた。ある日電車の先頭車両から前方を見ていたら、降りる駅の先にも線路はずっとつながっているのを見て無性にこの先に行ってみたくなった。すぐに母親の怖い顔が浮かんだが、沸き上がった冒険心に抗うことができなかった。一駅、二駅と先に行くにつれて心拍数が指数関数的に上がっていくのを感じた。怖かったけどなぜか気持ちよかった。自分が少し大人になったような気がした。
日を重ねるごとに先に行く駅の数が増えたが、さすがに終点までは行ったことが無かった。でも彼らは今まさに、それに挑戦しようとしている。応援したい、見守りたい、そして何より自分も彼らと一緒に終点まで行ってみたい、そう本気で思う自分がそこにいた。
電車が会社の最寄り駅に着いたが、少年たちは降りようとしなかった。自分も意を決してドアが閉まるまでじっとそのままやり過ごす。少し胸がざわついたが、いつの間にか胃の痛みの方はすっかり感じなくなっていた。
電車は一駅、二駅と先に進んでいく。降りるべき駅を乗り越してから少年たちは急に無口になった。二人ともきっと指数関数的に上がってきた己の心拍と必死に闘っているに違いない。思わず頑張れと心の中で声が出る。
五、六駅過ぎた頃に携帯が震えた。狐目の上司からの電話だった。少し迷ったが無視を決め込んだ。その後も伝言やメールがしつこく入ってきた。あまりにしつこいので携帯の電源を切った。なぜだかすっきりした。
十駅ほど過ぎた頃、突然海が視界に飛び込んできた。雄大な海と夕陽に染まる茜色の空が、心のあちこちにできている引っかき傷に優しく沁み渡る。真空パックで閉じ込めていた感情が一気に解き放たれ目頭が熱くなった。
乗り越してから一時間近くが経った。少年たちは一度も途中で降りようとしなかった。いよいよ次が終点だ。今頃会社では自分が帰ってこないことで上へ下への大騒ぎだろう。ゾクゾクするような解放感がたまらない。
終点に着いた。電車を降りると二人の少年は堰を切ったように上りホームに向かって駆けだしていった。よく頑張ったな、そしてありがとうと心の中で少年たちに感謝する。
自由の風が心地よい。降りると狐目に今日の不帰社と明日有休のメールを打った。たまには上司たちで報告書を書いてもらおう。
『熱海』と書いてある駅看板を確認すると、僕は早速携帯で温泉宿をチェックした。
(了)