第9回「小説でもどうぞ」佳作 橋の下の旅人/吉田猫
第9回結果発表
課 題
冒険
※応募数260編
「橋の下の旅人」吉田猫
大抵の場合、相手のあきれた顔を見ることになってしまう。それが嫌でこの話をすることは滅多にないのだけれど、今日は特別だ。
実を言うと僕は子供の頃に途轍もない大冒険をしたことがある。小学校の四年生のときだ。先に言っておくと、これは催眠術にかかったとか、精神がどこかを彷徨った、とかそんな類の話ではない。正真正銘の物理的冒険の話だ。まあ物理的という言い方が正しいかどうかはよく分からないけれど。
それはある人物と知り合いになったことから始まった。その人は僕の家の近所に架かる橋の下にあばら家を作り住んでいた。風体はと言えば少しばかり汚れた作業着を着て髪の伸びた中年の男だ。そのおっちゃんがいつから橋の下に住んでいたのかは今では定かではない。仕事はたぶん空き缶や鉄くずを集めたりして暮らしていたのではないかと思う。
僕は何故だか気になって学校の帰りに少し離れた場所からそのおっちゃんのことをいつも見ていた。ある日、橋の下を覗いてみるとおっちゃんの姿が見えなかった。いつも立て掛けていたオンボロ自転車も見当たらない。どこかに出かけているようだ。悪いことだとわかってはいたがおっちゃんが住む小屋の中を見たい誘惑に逆らえず、土手を降り橋の下まで近づくとベニヤ板とムシロの隙間から中を覗いた。中は意外とすっきりしていて汚れた畳みの上に小さなちゃぶ台と難しそうな本が数冊見えた。何を読んでいるのだろうと思ったときに急に後ろから声を掛けられた。
「なんか用か?」驚いて振り返ると自転車のハンドルを握ったおっちゃんが立っていた。小屋の中を覗くことに夢中になりすぎて帰って来たおっちゃんの河原を歩く足音にさえ気が付かなかったのだ。
僕は驚きで一瞬固まったが「ごめんなさい」と謝り走って逃げようとした。
「おい、ちょっと待て、これ食べていけ」
振り返るとおっちゃんが上着のポケットからチョコバーを取り出した。黒い顔でよく分からなかったが白い歯が見えていたから少し笑っていたのだろう。ぎこちなくチョコバーを受け取り、そのあと小屋の中で僕はおっちゃんと話をすることになってしまった。
おっちゃんは怖い人ではなかった。おっちゃんは僕に学校での勉強のこととか、友達との遊びのことなんかを訊いた。僕は算数が難しいことと、ウルトラセブンが大好きなことを話したように思う。テレビも無いのにおっちゃんもウルトラセブンは知っていた。僕は冗談で「おじさんも宇宙人じゃないの?」と訊いたら「こんな貧乏な宇宙人はおらんやろ」と言っておっちゃんは笑った。でもそのあと少し真面目な顔になってこう言ったのだ。
「お前は宇宙が好きか? じゃあ、ちょっと冒険してみるか?」
その日の夜、家族が寝静まる時間を待って、おっちゃんに言われた通り窓を開けると、星を見上げて目を瞑り、三つ数えて「迎えに来て」と呟いた。
突然背中に衝撃が走りどこかに放り出された。驚き、目を開けるとドーム状の空間の中に僕は立っていた。楕円形の大きな窓から飛ぶように流れていく数千の、いや数万の小さな煌めきが見えた。
「ここに座れ」おっちゃんの声が聞こえた。おっちゃんは昼間と同じ汚れた作業着姿のまま、目の前の見たこともない形の椅子に座っていた。僕もパジャマのままだ。促されるようにおっちゃんの隣りの椅子に座った。
目の前は信じられない光景が流れていく。
「これは……これはなんなの?」
おっちゃんはニヤリと笑って言った。
「宇宙だよ」
僕は間違いなく宇宙にいた。あんな美しい風景が夢のはずがない。流れていく星も本物だったし、あの不思議な宇宙船で座った椅子の手触りも忘れていない。ただウルトラセブンで見た宇宙とはだいぶ違っていたけれども。
驚きの冒険の旅はどれだけ続いたのかはよく憶えていない。だけどあまりの展開に少し疲れて目を閉じると、急に母に起こされ気が付いたら僕は眩しい朝の光のなかで布団にくるまっていたのだった。
その日からおっちゃんの姿は見えなくなった。自転車も無くなっていた。半月もすると橋の下の小屋も無くなってしまった。僕が学校に行っている間に市役所の人が来て小屋を壊しベニヤ板やムシロはトラックに積まれてどこかに運ばれたらしい。結局、その後おっちゃんに会うことは二度と無かった。
こんな話、誰も信じてくれないのはしょうがない。常識ではあり得ないことだから。ただ僕は思う。近い将来、旅を終えた大きな宇宙船が地球に飛来して、世界中が注目する中、開いた扉から降りてくるのは汚い作業着と長い髪の、あのおっちゃんなんじゃないかなと。
それを想像すると、とても愉快な気持ちになってしまう。僕はその日を待っている。
(了)
実を言うと僕は子供の頃に途轍もない大冒険をしたことがある。小学校の四年生のときだ。先に言っておくと、これは催眠術にかかったとか、精神がどこかを彷徨った、とかそんな類の話ではない。正真正銘の物理的冒険の話だ。まあ物理的という言い方が正しいかどうかはよく分からないけれど。
それはある人物と知り合いになったことから始まった。その人は僕の家の近所に架かる橋の下にあばら家を作り住んでいた。風体はと言えば少しばかり汚れた作業着を着て髪の伸びた中年の男だ。そのおっちゃんがいつから橋の下に住んでいたのかは今では定かではない。仕事はたぶん空き缶や鉄くずを集めたりして暮らしていたのではないかと思う。
僕は何故だか気になって学校の帰りに少し離れた場所からそのおっちゃんのことをいつも見ていた。ある日、橋の下を覗いてみるとおっちゃんの姿が見えなかった。いつも立て掛けていたオンボロ自転車も見当たらない。どこかに出かけているようだ。悪いことだとわかってはいたがおっちゃんが住む小屋の中を見たい誘惑に逆らえず、土手を降り橋の下まで近づくとベニヤ板とムシロの隙間から中を覗いた。中は意外とすっきりしていて汚れた畳みの上に小さなちゃぶ台と難しそうな本が数冊見えた。何を読んでいるのだろうと思ったときに急に後ろから声を掛けられた。
「なんか用か?」驚いて振り返ると自転車のハンドルを握ったおっちゃんが立っていた。小屋の中を覗くことに夢中になりすぎて帰って来たおっちゃんの河原を歩く足音にさえ気が付かなかったのだ。
僕は驚きで一瞬固まったが「ごめんなさい」と謝り走って逃げようとした。
「おい、ちょっと待て、これ食べていけ」
振り返るとおっちゃんが上着のポケットからチョコバーを取り出した。黒い顔でよく分からなかったが白い歯が見えていたから少し笑っていたのだろう。ぎこちなくチョコバーを受け取り、そのあと小屋の中で僕はおっちゃんと話をすることになってしまった。
おっちゃんは怖い人ではなかった。おっちゃんは僕に学校での勉強のこととか、友達との遊びのことなんかを訊いた。僕は算数が難しいことと、ウルトラセブンが大好きなことを話したように思う。テレビも無いのにおっちゃんもウルトラセブンは知っていた。僕は冗談で「おじさんも宇宙人じゃないの?」と訊いたら「こんな貧乏な宇宙人はおらんやろ」と言っておっちゃんは笑った。でもそのあと少し真面目な顔になってこう言ったのだ。
「お前は宇宙が好きか? じゃあ、ちょっと冒険してみるか?」
その日の夜、家族が寝静まる時間を待って、おっちゃんに言われた通り窓を開けると、星を見上げて目を瞑り、三つ数えて「迎えに来て」と呟いた。
突然背中に衝撃が走りどこかに放り出された。驚き、目を開けるとドーム状の空間の中に僕は立っていた。楕円形の大きな窓から飛ぶように流れていく数千の、いや数万の小さな煌めきが見えた。
「ここに座れ」おっちゃんの声が聞こえた。おっちゃんは昼間と同じ汚れた作業着姿のまま、目の前の見たこともない形の椅子に座っていた。僕もパジャマのままだ。促されるようにおっちゃんの隣りの椅子に座った。
目の前は信じられない光景が流れていく。
「これは……これはなんなの?」
おっちゃんはニヤリと笑って言った。
「宇宙だよ」
僕は間違いなく宇宙にいた。あんな美しい風景が夢のはずがない。流れていく星も本物だったし、あの不思議な宇宙船で座った椅子の手触りも忘れていない。ただウルトラセブンで見た宇宙とはだいぶ違っていたけれども。
驚きの冒険の旅はどれだけ続いたのかはよく憶えていない。だけどあまりの展開に少し疲れて目を閉じると、急に母に起こされ気が付いたら僕は眩しい朝の光のなかで布団にくるまっていたのだった。
その日からおっちゃんの姿は見えなくなった。自転車も無くなっていた。半月もすると橋の下の小屋も無くなってしまった。僕が学校に行っている間に市役所の人が来て小屋を壊しベニヤ板やムシロはトラックに積まれてどこかに運ばれたらしい。結局、その後おっちゃんに会うことは二度と無かった。
こんな話、誰も信じてくれないのはしょうがない。常識ではあり得ないことだから。ただ僕は思う。近い将来、旅を終えた大きな宇宙船が地球に飛来して、世界中が注目する中、開いた扉から降りてくるのは汚い作業着と長い髪の、あのおっちゃんなんじゃないかなと。
それを想像すると、とても愉快な気持ちになってしまう。僕はその日を待っている。
(了)