第9回「小説でもどうぞ」佳作 ムムカカ/烏目浩輔
第9回結果発表
課 題
冒険
※応募数260編
「ムムカカ」烏目浩輔
疏水べりを歩いていると声をかけられた。
「もし、そこのお姉さん」
見れば、疏水に浮かぶ二人乗りのカヤックに河童が一人で乗っている。
「よければこのカヤックで一緒に出かけませんか?」河童は私にそう尋ねてから空を指差した。「こんなに天気のいい日は滅多にありません。お出かけ日和ですよ」
なるほど、空は瑞々しい青である。だが、その誘いには乗れない。「生憎今から出勤なのです。仕事をさぼるわけにはいきません」
すると河童は矢継ぎ早に言うのである。「自分でこう言うのもあれですが、河童とお出かけなんて貴重ですよ。この機を逃せば二度と叶わないかもしれません。仕事と河童とのお出かけ、どちらが重要でしょうか? じっくりとよく考えてみてください」
私はじっくりとよく考えて答えをだした。「お出かけのほうが重要ですね」
「話の通じる方でよかった。善は急げです。どうぞカヤックにお乗りください」
はたして私は河童とカヤックで出かけることにした。しかし、河童の後ろの席に乗りこんでからはたと気づいた。「すみません、パドルの使い方がわかりません」
「お姉さんはなにもせずに景色などをご堪能ください。私が漕ぎますから大船に乗ったつもりで。いえ、これはカヤックですけども」
疏水べりの新緑が目に鮮やかだった。カヤックは滑るようにするすると進んでいく。
河童がパドルを操りつつ尋ねてきた。「差し支えなければお仕事をうかがっても?」
「イラストレーターです」と応じると、「繁盛していますか?」とまた尋ねられた。
「需要が少ない特殊なイラストレーターなのです。だから、まあ、ぼちぼちです」
「特殊とは?」
「緑色だけを使うイラストレーターです」
河童はカヤックを止めて背後の私を振り返った。「もしや緑色に長けておられる?」
「まあ、それなりに。緑色だけを使うイラストレーターですから」
「見てください」河童の右の掌が私に差し出される。全身が緑色であるのに掌だけは真っ白だ。「友人と口論になってついこの右手で張り手をしたのです。あとになってなんて酷いことをしたのかと考えていると、血の気が引いてこんなに白くなってしまいました」
「なんと」
「この掌を緑に戻すことはできませんか?」
「きっとできますよ。ちょうどいい緑色を持っていますので」
私は鞄をさぐって緑色のペンを一本取りだした。そのペンで河童の真っ白な掌を塗っていく。「生命線が長いですね」などと雑談を挟みながらしわの奥まで丁寧に塗った。
「おお」河童は掌を矯めつ眇めつ見た。「緑に戻りました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
河童は前に向き直った。「掌が緑に戻ったことですし、気合を入れて漕ぎますよ」
揚々と宣言したとおりにカヤックは凄い速さで進みだした。河童のパドルを扱う手は舞うように優美だ。それに見惚れてうっとりしていると、まもなくして疏水の細流から広い河に出た。
「ほら、見てください」
河童がそう促すので水面に目をやった。カヤックの下に巨大な影がある。
「龍が泳いでいるのです」
「龍は空に棲まうものなのでは?」
「近年は紫外線が強くなりました。それをふまえて居場所を空から河に変えたのですよ」
その後もカヤックは凄い速さで進んでいった。河口に至った頃にはもう陽が落ちており、白い月が夜空にぽっかり浮かんでいた。
河童はカヤックを止めた。穏やかな波に漂うカヤックはまるで揺籠のようである。
「ここから先は海になります」
「そうですね」
「海のことは私もよく知りません。海に出るとどんなことにみまわれることやら」
「それはちょっと怖いですね」
「ええ、怖いです。でも、ムムカカです」
私は首を傾げた。「ムムカカ?」
「古い河童語です。未知に挑む愚かさと尊さを同時に表した言葉です」
「人の言葉だとなににあたるのでしょう?」
「人の言葉ではムムカカを的確には表せません。でも、強いて挙げるとすれば冒険に少し似ています」
「海に出るとムムカカを知ることができるのでしょうか?」
「それはお姉さん次第かと」河童は私に意思を問うた。「どうします? 引き返しますか? 海に出てみますか?」
私はしばらく考えて「海に」と告げた。
「今夜は良きムムカカになるでしょう」河童はそう言ってにっこり笑うと、カヤックを夜の海へと進めるのであった。
(了)
「もし、そこのお姉さん」
見れば、疏水に浮かぶ二人乗りのカヤックに河童が一人で乗っている。
「よければこのカヤックで一緒に出かけませんか?」河童は私にそう尋ねてから空を指差した。「こんなに天気のいい日は滅多にありません。お出かけ日和ですよ」
なるほど、空は瑞々しい青である。だが、その誘いには乗れない。「生憎今から出勤なのです。仕事をさぼるわけにはいきません」
すると河童は矢継ぎ早に言うのである。「自分でこう言うのもあれですが、河童とお出かけなんて貴重ですよ。この機を逃せば二度と叶わないかもしれません。仕事と河童とのお出かけ、どちらが重要でしょうか? じっくりとよく考えてみてください」
私はじっくりとよく考えて答えをだした。「お出かけのほうが重要ですね」
「話の通じる方でよかった。善は急げです。どうぞカヤックにお乗りください」
はたして私は河童とカヤックで出かけることにした。しかし、河童の後ろの席に乗りこんでからはたと気づいた。「すみません、パドルの使い方がわかりません」
「お姉さんはなにもせずに景色などをご堪能ください。私が漕ぎますから大船に乗ったつもりで。いえ、これはカヤックですけども」
疏水べりの新緑が目に鮮やかだった。カヤックは滑るようにするすると進んでいく。
河童がパドルを操りつつ尋ねてきた。「差し支えなければお仕事をうかがっても?」
「イラストレーターです」と応じると、「繁盛していますか?」とまた尋ねられた。
「需要が少ない特殊なイラストレーターなのです。だから、まあ、ぼちぼちです」
「特殊とは?」
「緑色だけを使うイラストレーターです」
河童はカヤックを止めて背後の私を振り返った。「もしや緑色に長けておられる?」
「まあ、それなりに。緑色だけを使うイラストレーターですから」
「見てください」河童の右の掌が私に差し出される。全身が緑色であるのに掌だけは真っ白だ。「友人と口論になってついこの右手で張り手をしたのです。あとになってなんて酷いことをしたのかと考えていると、血の気が引いてこんなに白くなってしまいました」
「なんと」
「この掌を緑に戻すことはできませんか?」
「きっとできますよ。ちょうどいい緑色を持っていますので」
私は鞄をさぐって緑色のペンを一本取りだした。そのペンで河童の真っ白な掌を塗っていく。「生命線が長いですね」などと雑談を挟みながらしわの奥まで丁寧に塗った。
「おお」河童は掌を矯めつ眇めつ見た。「緑に戻りました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
河童は前に向き直った。「掌が緑に戻ったことですし、気合を入れて漕ぎますよ」
揚々と宣言したとおりにカヤックは凄い速さで進みだした。河童のパドルを扱う手は舞うように優美だ。それに見惚れてうっとりしていると、まもなくして疏水の細流から広い河に出た。
「ほら、見てください」
河童がそう促すので水面に目をやった。カヤックの下に巨大な影がある。
「龍が泳いでいるのです」
「龍は空に棲まうものなのでは?」
「近年は紫外線が強くなりました。それをふまえて居場所を空から河に変えたのですよ」
その後もカヤックは凄い速さで進んでいった。河口に至った頃にはもう陽が落ちており、白い月が夜空にぽっかり浮かんでいた。
河童はカヤックを止めた。穏やかな波に漂うカヤックはまるで揺籠のようである。
「ここから先は海になります」
「そうですね」
「海のことは私もよく知りません。海に出るとどんなことにみまわれることやら」
「それはちょっと怖いですね」
「ええ、怖いです。でも、ムムカカです」
私は首を傾げた。「ムムカカ?」
「古い河童語です。未知に挑む愚かさと尊さを同時に表した言葉です」
「人の言葉だとなににあたるのでしょう?」
「人の言葉ではムムカカを的確には表せません。でも、強いて挙げるとすれば冒険に少し似ています」
「海に出るとムムカカを知ることができるのでしょうか?」
「それはお姉さん次第かと」河童は私に意思を問うた。「どうします? 引き返しますか? 海に出てみますか?」
私はしばらく考えて「海に」と告げた。
「今夜は良きムムカカになるでしょう」河童はそう言ってにっこり笑うと、カヤックを夜の海へと進めるのであった。
(了)