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新人賞落選作のパターン その3

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作文・エッセイ
作家デビュー

最初から最後まで単独主人公で押し通す

  最近の新人賞応募落選作を読むと、登場人物を、あたかも、将棋の駒を動かすかのように動かしている作品が多い。

  それも、藤井聡太のように何十手、何百手も先を読む達人の将棋ではなく、縁台のヘボ将棋のレベルである。

  それだと、とかく「作者の都合」で登場人物を動かす、ご都合主義の展開になる。そうすると登場人物の性格が往々にして不一致になる。

  最初、こういう性格だった登場人物が、この場面でこういう行動をとるはずがない、という行動を平気でさせて気づかない。

  将棋に喩えるなら、金将と銀将の動きをゴチャ混ぜにしたり、飛車と角行の動きをゴチャ混ぜにするようなもので、まことに見苦しい。

  こういう不統一を、選考委員は「推敲不足」として選考時の大減点の対象にする。たいてい、これだけで一発落選である。

  また、やはり往々にして主人公を外側から描く、神様視点の書き方になる。

  最近の新人賞の選考基準では、神様視点の作品は一次選考で落とす暗黙のルールになっている事例が、圧倒的多数を占める。

  それを知らず、冒頭を神様視点の描写でスタートしている応募落選作も相当に多い。神様視点の冒頭で始まるが即座に主人公視点に切り替わるのであればOKの場合もないではないが、これは名うてのプロ作家が計算尽くで採る手法で、技量未熟なアマチュアには勧められない。

  計算尽くでそう書くのと、自覚せずに偶然そうなったのでは、外見上は酷似していても、後者はすぐにボロがでる。

  絶対にやらなければならないのは「作者が主人公になりきる」ことである。

  主人公の目に映り、耳に聞こえ、五感で察知できること以外の情報を書き込んではならない。神様視点の描き方だと、平気で主人公に見えるはずのないことを書く。

  例えば、主人公が誰かと別れて去って行く。振り返らない限り、別れた相手の動きが見えるはずがないのに、書く。

  見送り人が手を振っていたり、あるいは正反対に、あかんべえをしていたり。

  こういう、書き方の基本がなっていないアマチュアは、往々にして転々と主人公を切り替えていく(要するに誰が主人公なのか、読む側としては判然としない)。

  小説を書き始めて間もないアマチュアは、単独主人公で物語を最初から最後まで押し通すべき。

  それが良い結果に繋がる事例も、決して珍しくない。

  私は処女作が、某文学賞の最終候補にノミネートされた(その時の受賞者は直木賞作家で、故人となった藤原伊織)ラッキーでプロ作家を志し、幸いに、かなりの売れっ子になった(あまりに忙しすぎて、新人賞は受賞し損なった)。

  多忙な合間を縫って新人賞に応募したので、全ての応募作は一週間程度で書き飛ばしている。これで新人賞を射止めたら欲が深すぎるだろう。

  それでも、プロ作家として応募しているので、全てベスト20ぐらいには残って、単行本として出版された。無駄書きは唯の1作もない。

  学生時代の処女作でさえ文庫化された。

  何が言いたいのかというと、「アマチュアが新人賞を狙うのなら、物語は単独主人公で押し通すべき」ということである。

  よほどの大長編でも、主人公の数は上限3人で抑えるべき。それ以上の主人公を設定したら、まず、予選落ちする。

  直木賞作家となった川越宗一さんの処女作『天地に燦たり』が、そうだった。

「松本清張賞に応募したが、予選落ちした。どこが悪いのか」と応募落選作を送ってこられて、読んだところ、主人公の数が多すぎた。

  そこで「3人に絞り込むように」と指示して添削し、松本清張賞に再応募、見事に射止めた。

プロフィール

若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。

 

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