公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

時代小説の第一歩は正しい歴史認識からはじまる

タグ
作文・エッセイ
作家デビュー

百姓は貧乏?

私のような立場(新人賞を狙うアマチュアの作品を大量に読む)にいると、江戸時代の百姓(農民)像がほぼ完全に間違っているのに、愕然とさせられる。

百姓は武士階級に搾取されて貧乏のドン底を極めた哀れな存在として描かれる。

そういう百姓は土地を持たない小作農だが、小作農を搾取するのは武士階級ではなくて地主である。

土地持ち百姓は、江戸時代の後期になって、どんどん豊かになっていった。八代将軍の吉宗の頃から稲の品種改良が進んだので、地方によっては、二倍近くも増えたところもある。

しかし、そんなことは、農業ド素人の武士階級には、分かり得ようがない。

豊臣秀吉の太閤検地以来、江戸時代も頻繁に検地が行なわれたが、それは田畑の真の所有者を特定するための作業だった。

なぜかというと、頻繁に田畑の売買が行なわれて、持ち主が交代したからである。

どのくらい頻繁かというと、年がら年中、田畑の売買禁止令が出されていることでわかる。売買禁止令は全く守られないザル法だった。

江戸時代の検地では、田畑(主として年貢の対象である田圃)の持ち主を特定するのと同時に、どのくらいの米が収穫できるかの聞き取り調査を行った。

この時、検地役人の聴取に応えて説明するのが、村役人である。

「役人」の二文字が付くからと言って、武士だと思ってはいけない。苗字帯刀だから、武士と肩を並べられる存在ではあるのだが、あくまでも百姓である。

百姓である以上は、年貢を可能な限り大量に取り立てようとする検地役人に協力するわけがない。ずっと前の検地記録を持ち出して、いかに収穫が増えていないかを強調する。

これで、たいていの検地役人は、ころっと騙される。騙されないのは、日頃から領地内を経巡って農作事情を観察している、佐渡奉行を務めた荻原重秀のような人間だけである。

佐渡では、荻原重秀の検地によって、年貢が前年の八割増という途轍もない数字を挙げた。

これが佐渡の百姓の逆鱗に触れないわけがない。敢えなく荻原は佐渡奉行失脚に至る。

とにかく、幕末に近づくに連れて、幕府が尻窄みに貧乏になっていくのに対し、百姓は、どんどん豊かになっていく。

中でも筆頭は庄内地方の酒田(現在の山形県)の本間氏が筆頭に挙げられる。収入は百万石の大大名に匹敵すると言われ、日本最大の面積の農地を所有していた。

本間氏は、江戸四大飢饉(寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉)に次ぐ宝暦の大飢饉で大勢の餓死者を出した(一説に百万人が奥羽地方だけで出たと言われる)ことに心を痛め、救済に身を乗り出す。

庄内地方を治める十四万石の酒井家(実質的に、二十万石から三十万石もの収入があったと言われる)に申し出、豊作の際には酒井家の米蔵に備蓄、凶作や飢饉の際には放出する「八年の備蓄計画」を提案して酒井家に受け入れられ、この計画は、実に太平洋戦争終戦の昭和二十年まで維持された。

本間氏は酒井家から五百石の俸禄を与えられるが、酒井家は本間氏から数万両もの借金をしているので、これは単なる「侍としての名誉給与」でしかない。

幕末の戊辰戦争では、本間氏は奥羽越列藩同盟に、現代の感覚で三十億円もの軍事費を提供というか、投資をする。

幕府軍は鳥羽伏見の合戦で惨敗、その後の戦闘でも連戦連敗で幕府軍は崩壊している。

それなのに、なぜ、本間氏は徳川幕府消滅後の奥羽越列藩同盟に投資したのだろうか。

本間氏は、官軍の兵站線が長く延びることに期待したのかも知れない。

まだ鉄道輸送のない時代で、官軍の主力の薩摩・長州・佐賀・土佐から見れば、奥羽地方(この当時、方角以外で「東北」という呼称は、ない。「東北」は明治二十九年の与謝野鉄幹の造語)は、極端な言い方をすれば「果てもなく遠い」である。

兵員や武器弾薬の輸送には、途轍もない費用を必要とする。

その間に息切れし、官軍が撤退に追い込まれる展開を、本間氏は想定しただろう。事実、その可能性は充分にあった。

徳川陸軍は壊滅したが、榎本武揚麾下の徳川艦隊は健在で、官軍艦隊よりも戦闘能力は上であった。

兵站線が長く延びて補給に苦しめば、たとえ局地戦には勝っていても、やむなく撤退に追い込まれるのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐を見れば明らかである。

ところが奥羽越列藩同盟も徳川艦隊も、大きな目算狂いに遭遇する。折からの台風で徳川艦隊は致命的なダメージを被(こうむ)ったのである。

このアクシデントがなければ、歴史はどう転んだか分からない。

奥羽越列藩同盟が盛り返して官軍を撃破、徳川幕府の再興――があったとは思わないが、日本が南北に分裂、奥羽越列藩同盟および蝦夷地(北海道)が独立国になった可能性は、充分にあるだろう。

プロフィール

若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。

 

若桜木先生の講座