高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 はじまりの世界/横地可南子
横地可南子
猪野蔵吉(いの くらきち)は大柄な男だった。大酒飲みで風邪など全く引かない男だったが、七十を超えてすぐに、肝臓癌が見つかった。家族が見舞いに来て世間話をする生活が三週間。癌の進行は進み、容態は急に悪化した。家族が駆けつけた時には既に意識が朦朧としていたが、最後に孫の姿をとらえた。前に会った時より一回り小さくみえた孫に、蔵吉は「に・・・」と声を絞り出したが、言葉が続かないまま力尽きた。ジージーと鳴く蝉が鳴き止んだ、その一瞬の出来事だった。
そんな蔵吉は、成仏せずに家族が葬式の準備に追われているのを見ている。人間が死んだ後は、死神や天使が舞い降りて、天国や黄泉の国へ連れていかれるものだと考えていたので、現世をうろつく事は想定外だった。しかし、蔵吉はのんきな性格ゆえ、「そのうち成仏するやろ。」と呟き、自分の葬式に参列することにした。
葬式はとても和やかだった。蔵吉の好きなワインやギターが飾られており、遺影は十年前に撮った家族写真を引き伸ばしたものだ。「若干スッキリして若く見える」という長女の独断だ。ついでに、家族が蔵吉の存在に気づかぬ事をいいことに葬儀の費用も見てしまった。通常価格より少し高いのは、普通の棺に足が入りきらない。だから大きい棺を選択した、と次女が妻に説明すると、「膝を少し曲げたら丁度いいかもしれんね。」と妻が笑っていた。「悲しみのどん底にいても、どこかに笑いを。」それが猪野家だった。
出棺の時になると、蔵吉も家族が乗るバスに乗りこみ、運転手の隣でくつろいでいた。しかし、式場の温かさから一変、火葬場の冷たい空気を吸うと、急に緊張が走った。目が充血していく妻子と放心状態の孫の姿を見ると、蔵吉も「本当に死んだんや。」と実感する。
ほどなくして、蔵吉の遺体が入った棺が、火葬炉の前室に向かう台車に乗せられた。ガタンと棺が収まり、「これが、最後のお別れとなります。」と職員の案内と共に、次女の鼻をすする音が響いた。
その時、黒い着物を着た男が蔵吉の前にひょっこりと現れた。男は黒い癖毛、少し離れた目を持ち、口は横長に広がっている。
「私は死者をはじまりの世界へご案内する、運び屋という者です。」爬虫類のような顔をした男はさらりとお辞儀をした。
蔵吉はポカンと口を開けたまま、「それは成仏するという事かい。」と聞くと、運び屋はウーンと腕を組みながら答えた。
「成仏というよりも移動、ですかね。まもなく、火葬炉に入ると遺体は燃えますが、棺と魂は燃えずに移動するんです。もう時間がないので、ちょっと、失礼しますよ。」
運び屋は慌ただしく着物の袖から銀色の折鶴を取り出し、蔵吉の胸に押し当てると蔵吉は折鶴に吸収された。運び屋はフッと折鶴に息を吹きかけると、折鶴はふらふらと飛び、棺の中へ溶けていく。やがて棺は前室に入り、扉は静かに閉じられた。涼やかなベルが、チンッと響いた。
波に揺られる感覚を覚え、蔵吉は目を覚ました。運び屋は棺の蓋をあけ、蔵吉はゆっくりと身体を起こすと、目の前には川が広がっていた。川はミルクティーのような色をして、棺は小さな舟のように、川の真ん中で漂っている。川の向こうにはぼんやりした朱色の夕陽が川に溶けかかり、空は川と同化したようなミルクティー色で、うっすらとかかる薄紫色の靄は、きらきらと光っている。
川岸には黄緑色の蔓が渦を巻き、真緑の茎は四方八方に伸びている。茎からは毒々しいピンクや紫、ターコイズブルーの彼岸花がこれでもかと咲き乱れ、川には橙のホオズキがぱらぱらと流れている。
あんぐりと口を開ける蔵吉の顔を見て、運び屋はニヤリと口角を上げた。
「ようこそ、はじまりの世界へ」
(了)