高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 父になる/尻野ベロ彦
尻野ベロ彦
一月後、安産祈願のお守りと新生児用のおくるみが届いた。還暦間近の父がひとりで、これを買う姿を想像すると、おかしかった。
シングルの家庭の多くがそうであるように、私は鍵っ子で、父が作りおきした夕飯をレンジで温めてひとりで食べた。授業参観は嫌いだった。思春期になると、生理用品を買って欲しいと言い出せなかったり、すぐに「女なんだから」と言う父に反発したりと、それなりの軋轢もあったが、父娘の仲はそんなに悪くはなかった。お互いに唯一の肉親なのだと思えば、大抵のことは我慢できるものだ。離れて暮らす今は、たまに電話をし、お互いに近況報告をする。それが私と父との距離感だ。
今週が〆切の仕事を終え、自宅アパートに帰った私が階段を上りきると、渡り廊下に人の気配がした。別れた男がまた来ているのかと警戒し、壁の陰から覗き込むと、部屋の前に大きな荷物を抱えた父が立っていた。
「お父さん?やだ、来るなら言ってよ。いつからここで待ってたの?」
「大したことないさ。七時過ぎに東京駅について、その後、ご飯を食べたりしてたから」
「七時って、もう十時過ぎだけど……」
立ち話も何なので、ひとまず部屋に入ると、空の冷蔵庫を覗き込みながら父が言った。
「きちんと食べているのか?」
「食べてるよ。だいたい外食だけれど」
「産休は取らないのか?」
「取らない訳ないでしょ。いまの仕事がひと段落したら取るわよ」
疲れて帰ってきたところでの質問攻めに、返事も棘々しくなる。職場でも度々、いつから休むのかと聞かれるが、今は少しでもお金を稼いでおきたいし、戻る場所を失わないためにも、そうそう休んではいられない。復職したら、若くて可愛らしい派遣社員が自分の席に座っていた。そんな話をいくらでも聞く。マタハラどころか、マタマタマタハラだ。
「今が大事な時期だから、無理するなよ……」
父のつぶやきを耳にし、はっと我に返った。この人は出産で最愛の妻を亡くしているのだ。さっきの言葉も純粋に労りの気持ちから出ているに決まっているのに……。
「うん、ありがとう……」
なんとなく気まずい空気が流れる。シャワーを浴びて、すぐに布団に入ったが、横に人がいるせいか、なかなか寝付けない。狭い部屋には、父の鼾だけが響き渡っていた。
「お父さんの料理、久しぶり」
母が亡くなってから父は料理を覚え、どんなに仕事が忙しくても、毎食必ず用意をしてくれていた。小学校に上がってからは私も手伝うようになった。朝食を食べながら、そんな思い出話をしていたら、唐突に父が言った。
「一人で子どもを育てるのは大変だぞ」
そんなことは身に染みて分かっている。でも、もう決めたことだ。私の表情に浮かんだ反発を見て取ったのか、父が早口で続けた。
「お前には寂しい思いをさせてしまった。もっと一緒にいてやるべきだったと後悔しているよ。母さんにもだ。あの日、なんで出産に立ち会ってやらなかったのか。母さんが、どれだけ不安な気持ちでいたかと思うと…」
「お父さん……」
父は私に弱った姿を見せまいと、この三十年間、深い悔恨を心の奥にしまい込んで、父親らしく振舞ってきたのだろう。私は、そんな父を愛おしく感じ、静かに手を握った。父は濡れた瞳で私をみつめて言った。
「俺がお腹の子どもの父親になるよ」
自分の耳を疑った。「父親になる」ってどういうことだ? 私は握っていた手を慌ててひっこめって父に訊ねた。
「何言ってるの? 仕事はどうするのよ?」
「丁度、早期退職者を募集していたんだ」
「えっ、辞めたの? それで東京にきたの? でも、ここは狭いし、一緒になんて住めないよ」
「落ち着いたら引っ越そう。ネットで調べたら、この近くに良い物件があったんだ。退職金も出たから、家賃のことは心配するな」
嬉々として「これからはじまる三人の生活」について語る父の顔が、私にはまるで見知らぬ他人のように見えてきた。
(了)