高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 玩具売り場でつかまえて/田中大
田中大
「次は人さし指にいきますね」
声をかけて、ちよさんの手の甲をさすってから、ゆっくりとその人さし指を伸ばす。それから慎重に爪切を当てていく。
九十代の人の体に触るのは、私にとってちよさんが初めてだった。そんな私のお腹の中には、赤ちゃんが入っている。
私、もう四十一歳なのに。
夫のおばあちゃんの爪を切るなんて、そんな出来事が自分の人生にやってきたことに驚いていた。しかも臨月の自分に。
お互い四十代、職場内恋愛、まさかのおめでた婚、産休と介護。嵐、いや特大ハリケーンのようなこの一年を思っていた。
大型スーパーの空調のように、温度、湿度共に他人任せな人生だった。実人生の職場でもあった、大型スーパーの玩具売り場で、可もなく不可もなく生きていた。
まわりのテナントが、目まぐるしく入れ替わる中で、玩具売り場だけは安泰だった。
彼は同期であったが、系列店を一通り勤めて、二十年ぶりに戻ってきたのだ。
「のりかさん、まだいたの?」
声をかけられたその瞬間、恋に落ちた。
勢いよく紙芝居の一枚目が抜かれたように、そこから私の人生は始まった気がする。
二十年ぶりの再会を果たした相手が、上司になり、恋人になり、やがて夫になった。
四十歳の誕生日に、彼から特大の「赤ずきんちゃんすごろく」をプレゼントされた。
売り場で見たこともない、特注品だった。
なんとオオカミが改心して、最終的に赤ずきんと結婚するというゴールに掛けた、彼なりのプロポーズだったのだ。わかりにくい。が、断る理由はどこにもなかった。
婚約の報告に行く頃には、懐妊の報告も兼ねる事態になっていた。
夫の両親はそれはもう、喜んでくれた。息子は地元に戻るし、嫁も孫もついてくるなんて大当たりだ、と正直すぎる感想を言った。
初対面で夫の母君、つまり姑は、自身のなれそめまで語ってくれた。
「お見合いでね、顔なんか見れないでしょ。だから私、この人の手ばっかり見ててね。正座したひざを、こうぐっとにぎってて。手の大きい人だなってね。でね、ほら西遊記で、お釈迦さまの手のひらに乗ってる孫悟空を思い出したの。じゃあ、あれに自分がなっちゃえばいいんだ、って思ったの。それで決めちゃったのよ」
あれはたしか、男女が逆なのでは?と思ったが黙っていた。むしろ感動さえしていた。もう、舅がお釈迦さまにしか見えない。
ということは姑は元気なサル?いや、天真爛漫な人生の主人公だ。
義父母一家には、義祖母もいた。大きな手の義父の、お母さまだ。
ちよさんもまた、かわいい孫息子の結婚を、自分のことのようにはしゃいでくれた。
「のりかさん、この子はいい子だよ」
「のりかさん、この子は優しい子だよ」
あいさつに行った数時間のうちに、私に何度も言った。言われるうちに、なぜか感じたことのない幸福感に包まれていた。
その場で、入籍後の同居にも快諾した。あれよあれよという言葉は、あの時の自分のためにあったとしか思えない。
自分の人生は、四十歳からだと確信した。それまでは、色の無い夢を思い出すような、あいまいな記憶しかない。
やがてちよさんも、自身の来し方を、遠い目をして語ってくれるようになった。私は、今は亡き旦那さまの話が大好きだった。
「のりかさん、あの人はね、終戦の年に戻ってきたのよ。実家に帰るより前に、私のところに来てくれたの。でね、ぼくは浦島太郎だって言うわけよ」
「え?どういう意味ですか?だって戻ってきたらおじいさんになっちゃう・・・」
「そうなの。そしたらね、言うのよ。ここが竜宮城だよって。ぼくはもう、死ぬまで乙姫さまのもとから離れないからって」
これまた竹を割ったようなプロポーズだ。
とても気丈なちよさんだったけれど、私が産休に入るころ、身も心も軽く軽くなっていった。ちよさんの手はしかし、こうしてにぎると、芯にしっかりとした骨を感じた。
この手で、自分の人生を築いてきたんだ。
もう、どう考えても、私の人生が四十歳からの訳がなかった。
始まりは、ずっと前から始まっていたのだ。
物語りが生き続けるように、私も私に成るべくして、この場所にいるのだ、たぶん。
今の願いはただひとつ。お腹の中の子を、ちよさんに抱いてもらいたい。
神さま、お願いです、と心の中で言う。
赤ずきんとオオカミと、孫悟空とお釈迦さま、そして乙姫さまと浦島太郎(故)が、新しい命の誕生を、心待ちにしております。
(了)