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時代劇の間違い その3

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作文・エッセイ
作家デビュー

士農工商は身分制度ではない

時代劇では「士農工商の身分制度」に触れないわけにはいかない。ただし、士農工商を言い出すのは明治維新以降の、それも、かなり遅い時期で、おそらく大正時代か昭和初期。

江戸時代は武士(御目見以上)・百姓町人(御目見以下の御家人は百姓の扱い)・穢多非人の三区分しかなく、商人が最も下という身分制度は存在しない。

それが明らかになったので、日本史の教科書からも「士農工商」の文言は消えた。

平成生まれの人は「士農工商」の言葉を知らない。平成生まれの東大の後輩に「何ですか、士農工商って?」と訊き返された時には、さすがに驚いた。

しかし、大多数の時代劇作家は昭和時代の生まれなので、士農工商の言葉を使った、時代考証間違いの作品は、まだまだ大量に出回っている。

実際、士農工商の身分制度があったとすれば、百姓(農工商)に武士になる機会を与えれば喜んで飛びついたはずである。

身分制度でない「士農工商」の言葉自体はあって、これは一種の職業区分である。

侍(将軍や大名に仕えている武士で、御目見以上の者)と百姓(農工商。御目見以下の武士も、これに含まれる)で、侍とは現代で言うなら国家公務員(将軍に仕えている武士)か地方公務員(大名に仕えている武士)と考えれば、当たらずといえども遠からずである。

某直木賞作家の書いた作品(時代劇ではない)に「先祖は大百姓だったが、御家人になりたくて家屋敷を手放した」というようなことが書かれていて、唖然とした。

そんな馬鹿げたことが、有り得ようはずがない。

喩えるなら、民間企業の社長(二部上場程度)が「私企業では、いつ潰れるかわからない」と全財産を手放して運動し、市役所か町役場の平職員に雇ってもらうようなものである。どれほど非現実的か、分かってもらえただろうか。

百姓から侍になった例

さて、話を士農工商のことに戻そう。

「侍になれ」と言われて、「嫌(いや)である」と断った事例は山ほど大量に存在する。

もちろん周囲との柵(しがらみ)から、やむを得ず侍になる道を選んだ人も大勢いて、その一人が井沢弥惣兵衛である。

弥惣兵衛は、和歌山の那賀郡溝ノ口村(現在の海南市野上新)の豪農で、私費を投じて付近の貴志川(高野山に源を発する、紀ノ川では最大の支流)の埋め立て、および新田開発事業に取り組み、目覚ましい成果を上げたことから、徳川光貞(吉宗の父親)に召し出されて和歌山徳川家の勘定方に就任する。

この時点で百姓から侍になったわけで、その過程で様々な柵(しがらみ)があったであろうことは、容易に想像が付く。

勘定方でも、引き続き田畑の管理や、新田開発に従事したであろうと思うが、弥惣兵衛の治水家としての業績は、吉宗の代になって本格化する。

大々的に紀ノ川流域の新田開発に従事し、ここでも同様の大きな成果を上げたことから、吉宗の将軍位就任に伴って、江戸帯同を命じられる。

関東では武蔵国の見沼(現在の埼玉県さいたまし見沼区)の干拓、見沼代用水(埼玉県行田市付近で利根川から取水、東京都足立区や、さいたま市南区に至る)開削(かいさく)、多摩川改修、下総国の手賀沼(千葉県柏市、我孫子市、白井(しろい)市、印西市に跨がる利根川水系の湖沼)の新田開発、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の改修計画、鴻沼(埼玉県にあった沼で、さいたま市中央区、桜区、見沼区に跨がる)の干拓、小合溜井(東京都葛飾区と埼玉県三郷市に跨がる池で準用河川)などに実績を残す。

▲ 見沼自然公園の井沢弥惣兵衛の銅像。

弥惣兵衛は幕臣としても大出世し、享保十六年(一七三一)には勘定吟味役(老中直属で勘定奉行に次ぐ地位)、同二十年には美濃郡代(美濃の三割を占める幕府直轄領を管理する大代官)にまで抜擢される。

プロフィール

若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。

 

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