第4回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 在り難きかな、純毛/オオツキマリコ
第4回結果発表
課 題
老い
※応募数344編
「在り難きかな、純毛」
オオツキマリコ
オオツキマリコ
スーパーから戻った妻を見て、誠はおやっと思った。袋から飛び出した毛糸玉と竹の棒。
「今時の百均は、手芸道具も充実してるのよ。つい、買っちゃったわ」
極太のネイピーの毛糸、誠の好きな色だ。
「誠さんのもの、編んでも良い? 帽子とか」
え。
娘一家が帰省しているときは「じいじ」と呼ぶけれど、二人暮らしの日々ではたいてい「お父さん」と呼ぶ千里が、久しぶりに「誠さん」と呼んだ。何十年ぶりだろうか。
そして、編み物か。これまた本当に久しぶりだ。結婚する前はマフラーだのベストだの編んでくれてた。千里が二十代の頃だ。元気いっぱい、勢いにまかせて編むものは、どれもきれいな出来上がりだった、が、正直きつかった。一目一目を引き絞っているかのような、糸同士からきりりと軋む音が聞こえるような仕上がりだった。もちろん嬉しかったけど、何回か着て、その後は、
「僕、ちょっと太ったみたいだなあ」
などと言ってタンスの隅に突っ込んだ。そのうち千里は生まれてきた二人の子どものものを編むようになったが、成長につれて編み物そのものをやめた。子どもは汚すことが仕事、じゃぶじゃぶ洗える既製品で十分と悟ったのだろう。
何種類もあった竹の編み針はいつの間にか捨てられ、毛糸の玉は学校に持って行って図工の材料棚に置かれた。そして誠も千里も、教員を定年退職して十年近くなる。親の供養も済ませ、ゆるゆると生きる毎日だ。
「いや、お前、いいよ。肩が凝るだろう」
「大丈夫。ほら。イカ釣りに行ったとき、頭が寒かったから飛ばない帽子があると良いなって言ってたでしょう」
退職してから、ひょんなきっかけで誠は釣りにはまった。最初は教員時代の友人とサビキ釣り。そこから、何とも言えない海の時間の流れと釣れたときの快感にすっかり取り憑かれた。竿を買いルアーを揃え、釣り系YouTubeも閲覧し、今では釣り仲間とLINEで情報交換している。本当の名前など知らない「やっさん」「ハリス五号」「江崎のじいちゃん」たち。連れたという画像、波が高いから気をつけろという忠告がLINEを行き交い、笑ったり礼を言ったりする仲だ。
去年彼らと初めて船を出し、イカ釣りに行ったとき、風が強くて頭が寒く、しかもキャップが飛んで海の藻屑となってしまった。そのことを、千里は覚えていたようだ。
しかし、誠も覚えている。頭を締めつける帽子ならいらない。それこそ百均にだってあるし。
「いや、本当にありがとう。お前、自分の好きなものを編めばよいじゃないか」
「そう⋯⋯そうねえ、そうするわ」
やんわりと断ったのだが、千里があっさり納得したので、逆に、あれ、悪かったなと誠は思った。でも、波止場で頭痛になりたくはない。
千里は、編み始めた。
数十年ぶりのこと、作り目から思い出し、最初にゴム編み。手が慣れてきた頃、編み図に従って四本の竹針を組み合わせ始めた。
「自分の帽子よ。散歩のときの」
ただの毛糸玉が、ころころ転がりながら互いに交差し、輪を作り始める。なるほど、面白いものだと千里の手つきを見ていると、
「編み目が揃わないわあ。ぼこぼこだわ」
と千里が笑う。あのマフラーもベストも、こんな笑顔で編んでいたのだろうか。できるまで見ないでと言って別室で、機を織る鶴のように夜遅く編んでいたからその表情は知らない。でも、おそらく、受け取る自分の笑顔を楽しみに編んでくれたに違いない。誠は少し胸が痛んだ。
数日後、二個の毛糸玉はニット帽になった。てっぺんを綴じ、糸で始末し、くるっとひっくり返して、千里は満足そうに「できた」と微笑んだ。
「かぶってみたら?」
誠がそう言うと、千里は、
「ちょっとおトイレ」
そう言って洗面所に行った。誠は、テーブルの上のニット帽を手に取った。ぼこぼこだと言っていたが、揃った編み目。それでもきついのだろうと思いつつ、ちょっとかぶってみた。
ふんわりと、帽子は誠の頭を包んだ。暖かい。俺にぴったりだと残り毛糸のラベルを見ると、誰もが知るメーカーの純毛。百均では買えないぞ。
そうか。千里、お前も年を取った。一目ごとに糸を引っ張っても、あの頃のようなきりきりとした力はもうない。その代わり、やんわりと包みこむ大らかさを身につけたのだな。
これが生きる術か。老いることは確実に衰えること。ならば、衰えながら、いたわりながら、肩の力をほどよく抜いて歩けば良い。痛むところはさすって、もっと痛かったら、素直に医者だ。今さら意地を張るようなプライドなど不必要。うむ、老いとは素直さなんだな。
戻ってきた千里は、帽子をかぶって立っている誠を見て、おやおやという顔をした。
「千里、これ、俺にぴったりだ」
そういうと千里はにっこり頷いた。
「そうでしょう。誠さんの頭も小さくなったのよ。今や、自前の純毛が乏しいから」
(了)