第4回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 老いない/イトウモトコ
第4回結果発表
課 題
老い
※応募数344編
選外佳作
「老いない」
イトウモトコ
「老いない」
イトウモトコ
50歳をいくつか過ぎた頃だった。彩美は鏡の中の自分が、自己イメージ、つまり若い頃の自分とまったく違っていることに気がついた。実際にはとっくにそうなっていたのだろうが、ある日地下鉄の暗い窓に映った年取った女の顔が自分のものであることに気づいて驚愕した。こんな顔を自分は平気で世間にさらして歩き回っていたのかと思うと、胸がつぶれるほど恥ずかしくて怖かった。
そこから彩美は一気に美容オタクへと変貌した。アンチエイジング系のコスメを片っ端から購入し、ネットで仕入れたホームケアの類を日々行うなど、ありとあらゆる努力を一定期間続けてみた。その結果“劇的な変化は決して起こらない”という結論に達した。
次に向かったのは美容皮膚科だ。ネットの口コミを読み漁り、都内でも有名なクリニックの予約をとった。幸い夫は外資系の証券マン。裕福な暮らしのなかで、普段のブランド店での買い物や一流店でのランチを考えれば、美容費用は誤差程度の出費だった。
特殊な波長の光を顔に浴びる光治療で肌のハリを取り戻し、レーザーでシミを取り去った。さらに自分の血液を採取して加工したものを顔に注入して小ジワなどをなくす若返り治療に心酔し、手の甲にまで施術を受けた。彩美は現代の美容医学に感謝しつつ、それなりに美しさを保ったまま50代をやりすごした。
しかし老いは常にサプライズ。思いもかけぬことが起こって彩美を脅かす。60代になった彩美が鏡の中で発見したのは、これまでにはなかった最強の敵“たるみ”だった。
今までの治療ではたるみの進行速度に勝つことができない。頬のラインがじわじわとたるんでいく。彩美は焦った。恐怖だった。鏡を見るたびに震え上がった。
彩美が美容治療を始めるときに自分に誓ったのが「顔にメスを入れない」ことだった。それは美容の先輩ともいえる少し年上の友達が、一回メスを入れたらどんどん欲が出てきて止まらなくなり、あちこちいじり倒しているうちにAIロボットのような顔になっていったのを見てきたからだった。しかし長いこと魔法のようだ思ってきた治療の数かずは、すでに魔力を失った。次の一手を考えなければ。
悩んだ末の着地点は糸リフトだった。文字通り、口の横あたりからこめかみにかけて皮膚の下に糸を通して引っぱり上げ、たるみを緩和する治療だ。「これはあくまでも糸を入れる治療であって、メスは使わないのだから」と彩美は自分を納得させる。ダウンタイムもなく入院も必要ないという。このひとっ飛びで歯止めが利かなくなったらどうしようという迷いもあった。しかし今の顔で人前に出る苦痛を、これで逃れることができるのなら。
たしかに糸リフトは効果があった。だが二年後にはもう効果が薄れ、再びたるんできたので、二回めの施術を受けた。満足だった。
こうして60代は乗り切った。いろいろやってきたせいで多少顔が不自然なのは自覚していたが、「だからって何が悪いの? 年取った顔を世間にさらすより、きれいですね、お若いですねと言われるほうがずっと幸せに決まってる」と鏡を見るたび彩美は思う。「年齢不詳万々歳だわ」
70歳を少し過ぎたある夏の日。彩美はいつものクリニックに車で向かった。地下駐車場で車から降り、エレベーターに乗り込む。階数ボタンを押そうとして彩美はふっと手を止めた。いつもはほとんど無意識に押しているクリニックの階数が思い出せない……。仕方なくドアの上に書いてある案内表示を見て階数を探し、5のボタンを押した。
白で統一されたクリニックの受付では、顔見知りの女性スタッフが笑顔で彩美を出迎える。ところが予約確認のためパソコン画面を見た彼女は、その笑顔を曖昧に崩していった。
「井口様、あの……今日はどのような……」とささやくような小声で言った。
「え? いつもと同じよ、堀内先生の予約」
彼女はますます困惑した顔でパソコンを覗き込むと「申し訳ございません、本日のご予約が確認できないのですが……」と言った。
彩美は日にちを間違えていた。しかも月一回の予約を何年も続けてきたというのに、この前来たのは一週間前だったのだ。記憶力に自信があった彩美は、いちおう予定はメモするものの、よほどのイベントでもなければメモは見ず自分の記憶だけで動いていた。そして今の今まで、一度たりとも日にちや時間を間違えたことはなかった。それなのに。
彩美は駐車場に戻って車に乗り込んだ。じっと前を見つめたまましばらく動かなかったが、やがて大きくひとつ息を吐いた。
「わかった。今度はこっちってわけね」
自分に言い聞かせるように声に出すと、彩美は突然気合の入った顔でバッグからスマホを取り出す。そして脳神経クリニック、記憶障害、物忘れといったワードを打ち込んで、猛然と検索をはじめたのだった。
(了)