第4回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 台風と素麺と未必の故意と/華岡ゆみ
第4回結果発表
課 題
老い
※応募数344編
選外佳作
「台風と素麺と未必の故意と」
華岡ゆみ
「台風と素麺と未必の故意と」
華岡ゆみ
台風9号が近づいているせいで、うだるように蒸し暑い午後だった。
町にたった一軒のスーパーからの上り坂を、夕子は恨めしい思いで痛む足を引きずらせている。
『素麺を切らしたとは、どういうことかね夕子さん。他に用もなかろうに素麺のことくらい気遣ってくれても良さそうなもんじゃないか。夏ですよ夏、違うかね』
そんな忌々しい言葉が蘇る。
舅の登志男ときたら、二言目には夕子を怠け者扱いするのだ。
夕子とて来月には六十代に突入する。膝の持病とこの酷暑もあいまって、買い物に出たくない日があって当然ではないか。
登志男の口調は決して荒々しいわけではないものの、的を射て辛辣。愚痴を言いたくても姑はとうになく、夫の太一は大阪に単身赴任中である。
麺類好きの登志男は夏は素麺、冬はうどんがなくては夜も日も明けない。米と麺と調味料以外、誠多に肉も魚も買わせない険約ぶりで、日常使いの野菜は町を流れる一級河川の河川敷に小さな畑を借りてまかなっているくらいだ。
坂道を上がりきったところで歩を止め、首の汗を拭う。肥満気味の身にはこの坂がきつい。眼下を流れる河川の様子にまだ変化はないが、数年前の豪雨で岸辺の大木が何本も流される被害が出ていた。
遠く丹沢の山並みのほうから広がってきた黒雲は、夕子の立っている上空にまで差し掛かり始めた。自宅まで数十メートルのところで雷鳴が轟きだし、仰いだ空からたちまち大粒の雨が落ちてきた。
あぁっ、ついてないったら!
まだ大丈夫だろうと傘を持たずに出てきた自分を呪う。夕子は素麺の袋を入れたエコバッグを頭上に掲げ、急ぎ足で自宅に続く路地に駆け込んだ。薄いエコバッグなど何の役にも立たず、玄関に駆け込んだときには毛先から雨水が滴っていた。
「夕子さん、帰ったのかね。今夜はピーマンのかき揚げをつけておくれ」
濡れた髪を拭っているところへ、登志男の容赦ない指示が飛ぶ。
天ぷらを揚げろですって?
この暑いのに? 長い坂道を登ってきた濡れねずみのわたしに?
だいたい、素麺素麺って、食べるほうは涼しくていいだろう。だけど、調理するほうは火の傍で――いや、言うまい。
「ええ解りました、お義父さんのピーマンは最高ですものね。ですけど畑は大丈夫なんでしょうかねぇ、数十年に一度あるかないかの猛烈な雨台風だそうですよ。ほら、あの辺って水害がありましたよねぇ、心配ですわねぇ畑」
わめきたいほどの黒い感情を、薄ら笑いと親切ごかした丁寧な言葉で包み隠す。窓を聞け、薄暗い路地に叩きつける雨音を聞かせてやった。
「この雨で、おネギの畝が流されてなきゃいいですけどねぇ」
みるみる登志男の表情が強張った。
さらに、とどめを刺しておく。あら大変、ピーマンが一個もないわ、と。
「ちょっと出かけてきます」
いつの間にか雨具を着込んだ登志男が、風雨に煽られながら玄関を出ていく。
その痩せた背中を見て、夕子ははっと我に返った。わたしはなんてことを言ってしまったのか。八十を過ぎた老父に、まるで水かさの増した川に行ってこいと急かしているかのようではないか。
「お義父さん! 待って、危ないから戻って、お義父さん」
夕子の叫びは、横殴りの豪雨に掻き消された。裸足で駆け出した先に、登志男の姿はもうなかった。
(了)