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第20回「小説でもどうぞ」選外佳作 セカンド・ゴング オオツキマリコ

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第20回結果発表
課 題

お仕事

※応募数276編
選外佳作 
セカンド・ゴング オオツキマリコ

 直樹は鼻の下まで湯につかった。そうすれば首や胸の手術跡が湯船で隠れるからだ。
 先週、直樹はプロレスラーを引退した。十六年二ヶ月。長かった、いや、あっという間だった。高卒で飛び込んだこの世界、苦しいことや痛いことの方が圧倒的に多かったけど楽しかった。団体のベルトも何度か巻いた。そろそろトップに立つ機運も高まってきた、そのタイミングでまさかのドクターストップ。首の古傷が致命的だった。
 さて、どうするか。この仕事に就いたとき、覚悟はしていた。何人かは余生を傷で苦しめられ、何人かはリング上で死んだ。むしろ、この段階での引退勧告はラッキーだ。見た目元気な三十四歳の転職。あるのは柔道整復師の資格だけ。継ぐような家業も田畑もないし……。
「おっとっとお」
ガラリと戸を開けて入ってきた老人が、濡れた床に足を取られた。危ない! 直樹はとっさに風呂から飛び出し、間一髪、その手を掴んだ。
「いやあ、すまん。こりゃあ、ありがとう」
「いえ、良かったです」
 九州、佐賀の温泉旅館。以前遠征に来たとき、とても居心地が良かった宿だ。料理ももてなしも佇まいも湯も。だから引退後、真っ先にここへ来た。ぼんやりとくつろげる気がして。
「お兄さん、頑丈な、良い身体してるね」
「はあ、ちょっと運動してたので」
 身体を洗う直樹の横に、老人はちょこんと座った。空いている場所はあるのに。でも嫌な気はしない。これも旅の楽しみだしな。
「そうかい。身体が動くのは良いねえ。わしも元気だったんだけど、左肩が上がらなくなってね」
「それは鍵盤断裂、ですか?」
「そうそれ。だから背中とか洗いにくくてね」
「良かったら、流しましょうか?」
「え? いいよいいよ」
 断る老人の後ろに直樹はさっさと回り、新しく泡だてたタオルでこすった。小さな背中。
「こりゃこりゃ、命の洗濯だ。良い気持ちだ」
「そうですか、良かった」
 老人は目を閉じて、ふうと息を吐いた。
「デイサービスでも洗ってくれるんだけど、なんだか優しすぎてなあ。お兄さん、力の入れ方うまいよ。うん、コリがほぐれていく」
「デイサービス、ですか」
「そう。みんな良い人なんだ。優しくてね。でも時々、がーっと身体を動かしたくなる。相撲とかさ。そういう相手になってくれたらね、うん」
「相撲……」
 何か、ひっかかる。
「でんぐり返し、腕相撲、けんかごっこ。そう、お兄さんみたいな大きい人なら騎馬戦でおんぶしてほしいよ。子どもに戻った気分で嬉しいや」
「おんぶですか、お安いご用ですよ」
 百キロ以上のレスラーを放り投げてきた。そんなことは簡単だ。いや、今、引っかかったのはそこじゃない。直樹は、迷路の中で手がかりになる何かが光った気がした。老人は笑う。
「でもなあ、時には女の子がいいなあ」
「え、俺じゃあだめですか、ははは」
「お兄さん、年寄りにだって色気はいるんだよ」
 老人はくるっと振り返ってにやっと笑った。
「たとえば歩行訓練だと、じじいにはギャル、ばばあにはイケメンの指導員の方が効果がある。うちのばあさんなんてさ、腰の手術の後、茶髪の兄ちゃんに“みやこさあん、こっち、ここまで歩いておいでよ”なんて言われてほいほい、廊下の端から端まで歩きやがった。エロの力はすげえよ」
「へええ、面白いなあ。そうなんですね」
「だからさ、お兄さんみたいな男や運動できるお姉さんはこれからの時代、必要なわけよ」
 背中を流すと老人は湯船へと向かった。直樹は、雷に打たれたような感覚の中にいた。
 俺の身体はいくらでも役立つ。そして、俺のように若くして引退していく選手も、男女問わず毎年出ている。去年辞めた同期の山形猛は確か調理師免許を。ジェニーはピアノが上手いし、幼稚園の先生だった今田は絵本作りが趣味だ。闘う身体から助ける身体に。プロレスラーのセカンドキャリアと高齢者福祉。いける、いけるかもしれない。と、
「実はね。ここの温泉で、新しいタイプの高齢者向けの施設を作るから、人を集めてるんだよ」
「ほんとですか?」
 そう聞くと、老人は頷いて手招きした。招かれるままついて行くと、脱衣所に一枚のポスターがあり、端には横に立つ老人の写真があった。
 ――明るく楽しく、元気なケアホーム始動!
 画期的なプログラム展開! スタッフ募集
「ここの社長なんですよ、私」
 老人はすっと、右手を直樹に差し出した。
 佐賀県に一風変わった高齢者ケアホームがオープンした。そこには妙に屈強な若いスタッフが常駐する。老人達は運動をし、音楽や絵画、小物作り等を楽しみ、高タンパクの食事を食べてみるみる足腰が強くなり、いずれは登山もと意気込んでいる。仮に途中でへたばっても指導員が余裕でおんぶしてくれるから大丈夫だ。ケアホームの名は「セカンド・ゴング」。
(了)