第27回「小説でもどうぞ」選外佳作 流浪の病 八州川健太
第27回結果発表
課 題
病
※応募数314編
選外佳作
流浪の病 八州川健太
流浪の病 八州川健太
「こんにちは」
椅子に座り、波打ち際で湖を眺めていると声をかけられた。
声の方に顔を向ければ立派な白髭を蓄えた、しかし清潔感のある老人が立っていた。彼はアウトドアチェアを抱え、リュックサックを背負っていた。
私が感染していることを示すキーホルダーを見せると、彼も同じものを出した。
「あなたもですか」
そんな気はしていた。
「厄介な病にかかったものです」老人は微笑みながら言う。「隣、よろしいですか」
「どうぞ、と言っても私も来たばかりですが」
老人はチェアを広げてリュックサックを降ろす。ステンレスのポットとコーヒー缶、それからガスボンベを取り出した。お湯を沸かし、二つの素焼きのマグカップに注ぐ。
「お近づきのしるしです」
コーヒーの香りが立ち上るマグカップを受け取る。素朴な形のそれはお世辞にも上手とは言えないが、親しみを感じた。
「このマグカップは手の形に合ってよいですね」
「ありがとうございます。僕が作ったんですよ」
私もリュックからタッパーを取り出す。中には先日、ここに来る途中でもらったクッキーが入っている。
「頂きものですが、どうぞ」
「ありがとう」
老人は顔を綻ばせてクッキーを手に取った。
私と老人は湖を眺めながらクッキーを頬張り、コーヒーを
私と老人の間に会話はない。珍しいことでもない。
喋りたくなったら、口を開く。お互いに会話の機会を推し計る訳でもなく、誰ともなく勝手に喋り出す。時々、喋り出しが重なるときもあるが、そのときは笑い合うだけだ。
伺い、気遣い、本心を隠す。そんな会社員だった頃の毎日よりも、ずっと人付き合いが楽しくなった。病に
老人はポケットからスマートフォンを取り出した。どうやら連絡があったらしく、立ちあがり離れていった。誰かと会話をしていたが、しばらくすると戻ってきた。
「妻からです」画面を見た老人は恥ずかし気に言う。「元気にしているかと。一時間に一回は連絡が来ます」
「素敵な奥さんですね」
「この病に罹ってから、そばにいる時間がなくなってしまいましたからね。それでも意外なものです。単身赴任していたときだって、こんなに連絡はありませんでした」
私が笑う横で、老人はスマートフォン上で指を滑らせる。老人の表情が呆れにも近い苦々しさに変化した。
「遂に十五パーセントを超えたようです」
「七人に一人ですか」
「虚偽の疑いも多いそうですよ。皆、僕たちが羨ましいのでしょうね」
私は堪え切れず小さく噴き出す。
「病人が羨ましいとは、随分と不謹慎な話です」
「これからも感染者数は増え続けると思いますか」
「ええ。この病は楽しいですから」
この病気の治療薬の研究は、ほとんど進んでいないという噂もある。しかし感染者数は増え続けている。真偽のほどは定かではないが。
「確かに」老人はゆっくりと笑った。
「まさか外に出るとよくなる病気なんて、あるわけないと思いますよね」
私と老人は静かに笑い合う。
「この病気の患者は同じ場所に長期間、留まると
医師会の見解に世論は
「今、思えば医師会は思い切ったことを言ったと思います」
「僕も最初聞いたときは耳を疑いましたよ。旅行に出かけると治る病気などあるはずない。ですが、いざ自分も感染するとつらさが嫌というほど分かりました」
ほとんどの人に現れた初期症状は発熱や眩暈、吐き気など風邪に似た症状だったために、当初は危惧されていなかった。しかし私も含めて症状がよくなることはなく、むしろ意識を失う患者も現れ始めた。手は尽くしたが悪化の一途をたどったために医師は混乱した。
偶然とは言い難いが、きっかけは一人の患者の脱走だった。患者が病院から離れた途端に快方に向かったらしい。彼の勇気ある行動に私たちも救われている。
「しかし以前のパンデミックとは、まるで逆なのに驚くほどに社会の環境が変わって、しかも順調に移行したのだから驚きです」
「あのときの経験が生きたのでしょうね」
私は空にしたマグカップをお礼と共に返す。
まさしく、と言わんばかりに老人は首肯する。
「ここにはいつまで?」老人が聞く。
「だいたい一週間でしょうか。それ以上になると症状が出てしまいますので」
「それは羨ましい。僕は三、四日ほどで現れてしまうので、どうにも
ふと、東北を巡っていたときに聞いた話を思い出した。
「この病気、最近になって一部の研究者の間で囁かれている名前があるんですよ。それを聞いて格好いいと思いましてね」
「どんなものでしょうか」
「流浪の病と呼ぶそうです」
「それはまた、お洒落なものですね」
老人は湖を見つめ呟いた。
「病と共に私は旅路を駆け巡る」
(了)