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仕組みがわかれば書ける! 小説の取扱説明書⑥:書くことから始めてみる

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書ける人は、まず書いてみる

第一章、第二章で、小説の基礎的な知識を得ました。では、もう書き出してみましょう。
専門的な知識が必要な場合は下調べが必要ですが、ここでまず書いてもらいたいのは身近な体験です。体験をもとにした創作です。あまり構えずに、習作だと思って書いてください。
テーマも必要ありません。そういうものは、探して探せるものでもないでしょう。書いているうちに見出すもの、書いた結果、発見するものです。論文の場合はそうはいきませんが、小説の場合は「○○は○○である」と結論つけるわけではありませんし、テーマが見えている必要もありません。
語り手は誰でもいいです。人称も自由、一人称でも三人称でもいいです。ただし、視点は一元視点にしてください。

話のネタは必要

テーマは見えていなくてもいいですが、「どんな話を書くか」という話の核のようなものは必要です。
では、それを探してみましょう。
まず、ご自分の体験を振り返ってみてください。昨日のことでも、三十年前のことでもかまいません。ちょっと変わったエピソードを探してみてください。
そこに、「あれっていったいどういうことだったんだ?」という謎、または問いはないでしょうか。あれば、それについて思いを巡らせてください。
たとえば、「転校してきて三日後にまた転校していった女の子がいたなあ」とか。そんなふうに記憶の周辺をたどっているうちに、それまで考えもしなかった謎や問いが見えてきます。
そうした謎を解くために、このときの光景を克明に思い出すよう努めます。人物の外見から周囲の様子、家庭環境までもすべて覗き見します。
事実である必要はありません。こうだったのだろうと推測する。想像する。小説ですから、それでかまいません。
そうして自由に考えていると、「転校していった女の子」ならそれに引っ張られて、別の記憶が蘇ってきます。別の記憶というのは、あなた自身の記憶かもしれませんし、映画や小説を通じて得た記憶かもしれませんが、それらが頭の中に同居することで反応しあい、新しい物語を生むはずです。
「光景を克明に思い出す、覗き見する」と言いましたが、それは頭の中でやるより書いたほうが頭に浮かびます。だから、書いていいのです。
最初からうまくいくとは限りませんが、それでOKです。一歩踏み出せば二歩、三歩と前進する可能性も出てきますし、経験値も上がりますが、ゼロはいつまでたってもゼロだからです。

まずは10枚書く

枚数は想定しておきます。何枚がいいとは言えませんが、ほとんど書いた経験がない人なら十枚(四百字詰換算)ではどうでしょうか。
このとき、十枚の掌編小説を書こうとしないほうがいいです。ここで言う掌編小説とは、”切れ味の鋭い“”人生の断片を切り取った“ といったものです。
結果的にそうなるのならいいですが、ここで書く十枚は、これからもっと長いものを書いて、それで破綻しないためのデッサンです。
長い小説には、「内容はいいんだけど、デッサンが狂っている気がする」と思ってしまうものがあります。デッサンが狂っていたのでは、部分的な修正では利きません。
そうならないように、「話の運びはどうか」「描写に過不足はないか」「機能していない場面はないか」「辻棲は合っているか」「(登場人物や小道具など)出したまま片づけてないものはないか」といったことをチェックします。
たとえば、《導かれるようにしてコンビニに寄った》という一文があったら、このあとの展開の中に、このコンビニか、そこで買ったもの、出会った人などが出てこなければ不自然ですね。
またコンビニでビールを買ったとして、そのあとに、《ビールが一本もない》と書いてあったら矛盾します。
こうしたことは、百枚、二百枚となると気づきにくい。しかし、短いものの場合は気づきやすい。だから、それができないうちは掌編、短編でデッサンを積む
のです。
そして、十枚が完璧に書けたら、次は二十枚、二十枚が書けたら四十枚、四十枚が書けたら八十枚。八十枚あると新人賞に応募できます。
もちろん、最初から五十枚、百枚でも書けるという人はそれでOKです。

極意は隠すこと

小説は押しつけを嫌います。いくら深い人生観だって、「人間とはこういうものだ、そう思え」というような書き方ではそっぽを向かれます。
浅田次郎に『小村二等兵の憂鬱』という短編があります。
 
自衛隊の小村二等陸士は点検日を明日に控え、半長靴を失くしたことに気づき慌てます。戦前なら下賜されたものを失くすことは切腹ものの大事だからです。
当然、それを同室の和田士長に打ち明けると往復ビンタを食らわされ、盗んででも半長靴を揃えろと言われます。
その日の夕方、半長靴をなくした罰について小村は「まあ殺されはしないと思うけど、半殺しだな」と言われビビりまくりますが、その日に限って警備が厳しく盗めません。しかし、点検当日、なぜか亡くしたはずの半長靴が出てきます。
点検が終わると、和田士長は小村を叩きのめし、襟首を掴み上げ、私物ロッカーのカーテンの奥に小村の顔を押し込んでこう言います。

「森士長にお礼を言え」
「ど、どういうことでありますか」
「部屋長はな、おまえの半長靴があんまり汚ないから、見るに見かねて洗って下さったんだ」(中略)
「そ、そんな……もしや、みんなそのことを」
「知らねえのはおまえだけだ。補給係も補給係も、班長も先任も、みんな知ってる」
「ひどい……ひどすぎる」
「何がひでえんだ。こうでもしなけりや、おめえの根性は直らねえだろう」

 

小村は整理整頓ができません。軍隊の場合、これは問題です。いざというとき、「弾、忘れちやった」なんて言われても困ります。だから周囲は必死で、もっとも手っ取り早い方法で矯正します。
ただ、それがいいとも悪いとも書いてないところがミソです。「暴力賛成」でも「暴力反対」でも、はっきり言われるとその答えは「YES」か「NO」しかありません。しかし、答えが書いてないと、「実際のところ、どっちだ?」といろいろ考えてしまいます。隠すことで探すように仕向けているわけです。

リアリティー

リアリティーとは、本当のようだ。、まさに起きているみたいだということ。

薄暗い四畳半の部屋で独り、読みかけの本を開きながらカレーライスを食べた。
空腹を満たす、そのことのみを目的として、機械的にスプーンを口に運んでいた。
ところが、その何口目かでーー
かりっ、という何だか変わった歯応えを感じたのだった。

(綾辻行人『特別料理』)

これはゴキブリを食べてしまったシーンの描写ですが、これを、《彼はゴキブリを食べてしまったことがあった》とだけ説明的に書いてしまうと、そんなことそうそうないよと思われます。
リアリティーがあるかどうかはひとえに描写にかかっています。端的に言えば、人物の目(五感)を使って、絵が浮かぶように書く。出来事を再現するように書く。さらに映像だけでは伝わらない感じを書く。そうすると「本当にあったことみたい」となります。
しかし、そう書いたとしても、都合のいい設定や展開をすると、読み手は興ざめして、作り話っぽいなと思います。
たとえば、日常生活では、《偶然、昔の友人と会った》《ふと思った》ということはありえますが、それを小説の中でやると、ずいぶん都合がいいと思われます。
「偶然」「ふと」「たまたま」等々と書いても、それが自然ならいいですが、「展開の都合上、強引にそう書いたな」と思われるとまずいですね。
出来事が起きてから出すというのもよくありません。 「あと出し」ですね。
たとえば、火事になりそうになり、カバンの中を見ると、《なぜか携帯用の消火器があった》では不自然ですね。この場合は“持っていることが必然″という伏線を張っておく必要があります。

「おもしろい」の要素

すでに書き出している人もいるかもしれませんが、最後におもしろくするための要素を二つだけ挙げます。

人間を描く

「平凡な私の日常を書いて、それでおもしろくなるでしょうか」と言う人がいます。確かに日常の表面をなぞっただけではつらいかもしれませんが、穿ったり、ひねったり、深めたりすれば、そう捨てたものでもないでしょう。
そもそも他人の日常を覗く(ような気分で読む) ことは、それだけでおもしろいものです。
田山花袋の『蒲団』は、大胆に要約すれば、弟子の若い女性にふられ、彼女が使っていた布団に顔をうずめておいおい泣くという話です。
でも、普通は他人には言わないようなことが書かれているから、「うへえ」と思うわけです。
ここには人間が描かれています。人間とは何かという問いに答えるのは難しいですが、「動物ではないもの」と言うことはできます。横恋慕したり失恋したりといったことは、動物はしません。
それを書くことが人間を書くことと考えれば、そんなに難しいことでもないのではないでしょうか。

反転させる

重松清に『流星ワゴン』という長編があります。主人公は永田和夫、妻は美代子。息子の広樹はひどいいじめにあい、公園の奥に行って、護身用と銘打って売っているようなゴツいパチンコで密かにペットボトルを撃っています。
隣には健太という少年がいます。父親は心配しながらそれを陰で見ています。

「ねえ」健太くんが言った。「ペットボトル、ぜーんぶ名前が書いてあるんだね。誰なの?この名前」
「触るなって言ってんだろ」
「ちょっとだけ、ね、ちょっとだけだから……ナイトウ・ツバサって読むんだよね、あと、オカモト・シュンスケ……違う?ま、いいや、で、こっちがフジタ・ヒデアキで、あ、これ、女の名前だ、ハラ・カズミだって」
最後の名前で血の気がひいた。ハラ・カズミ――原和美、だろう。広樹のクラス担任の名前だ。
ナイトウ・ツバサ――内藤翼の名前も聞いたことがある。広樹と三年生の頃からずっと同級生で、受験勉強を始めるまで入っていた少年野球チームでもいっしょで、日曜日にウチに遊びに来たこともあった。(中略)
「バ力の名前だよ、みんな。こいつら生きてる価値ないから、俺が処刑してやってんの」(中略)
「これ、漢字が難しくて、なんて読むのかわかんないけど、読んでいい?」
ようやく聞こえた健太くんの声は、さっきよりさらにうわずっていた。
「えーとねえ……一つがねえ、ナガタ・カズオでしょ……で、もう一つが、ナガタ・ミヨコ……」
頭がくらっとした。声が出そうになるのを胸でこらえたら、腰や膝から、体の重みが抜けた。

(重松清『流星ワゴン』)

処刑と称し、いじめをしていた生徒らの名前が書かれたペットボトルを撃ってぼこぼこにしている。その様子を陰で見ている段階では「息子のことで胸を痛めている父親」でしたが、一瞬で、同じシーンが「息子に恨まれている父親」に変わってしまいました。
オセロゲームの白が一瞬にして黒になるような見事な切り返しです。

書くときは無心になる

小説を読んだ経験のことを小説経験とでも呼んでみましょうか。最初に小説を書いたときは、それまでの小説経験から、「小説というのはこういうものじゃないか」という勘で書いたはずです。
ところが、自分の思い描いた小説観に筆力が追いつかず、あえなく挫折。それで自分なりに研究してみたが、考えれば考えるほどに書けなくなる。しかし、このままでは壁を越えられない。そんな負の連鎖に陥ったことはありませんか。
スポーツでもそうですが、一つのことに気が向くと、ほかのことができなくなるということがあります。たとえばゴルフなら、「腰が開かないように」というアドバイスに従おうとしてそのことばかりにとらわれてしまうと、全体の動きがぎくしゃくする、距離感が鈍るということは往々にしてあります。
もちろん上達するためには技術は必要です。専門的な知識も欲しい。しかし、ひとたびクラブを握ったら、もう打つことに集中する。無心になる。そうしないと、働く勘も働かないものです。
小説を書く場合も、技術や知識を蓄積しつつ、しかし、書く段になったら無心に書く。勘で書く。書けないのは能力の問題ではなく、働かせるべき勘が働いていないからかもしれません。

 

※本記事は「公募ガイド2011年10月号」の記事を再掲載したものです。

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