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第30回「小説でもどうぞ」佳作 脱出不可能 木村志乃介

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作文・エッセイ
小説でもどうぞ
第30回結果発表
課 題

トリック

※応募数237編
脱出不可能 
木村志乃介

 ゆらゆらと蜘蛛の糸が揺れている。私は目の前に垂らされた蜘蛛の糸を必死に掴もうとあがいている。しかし身体は縛られたみたいに動かない。
 ああ、早くこの糸を掴まなければ……。

 後頭部が殴られたみたいにズキズキと痛んだ。
 夢を見ていたらしい。だけど後頭部の痛みは現実だった。
 ズキズキ痛む後頭部に触れようとしてそれが無理だとわかる。
 後ろ手に縛れていた。私は身動きが取れない箱の中に横たわっていた。
 ここはどこだろう? なぜこのようなところに入っているのだろうか。自分でもわからない。身動きが取れないながらも棺桶のような箱だとわかる。
 足下のほうから弱い光が漏れている。ところどころ小さな穴が開けられていた。子どもが捕まえた昆虫を箱に入れ、生かすために開けたような穴だ。穴は足下にしかなく、私の位置から外の様子を見ることはできない。
「だれか! だれか、いませんか!」
 腹に力を込め、ありったけの声を張り上げるが、外からの反応はない。ならば力ずくで箱から飛び出せないかと体を揺らし、左右に肩をぶつけてみるが、女のか弱い肩ではびくともしない。
 なぜこんなことに。思い出そうとするが浮かんでこない。代わりになぜか湯船に浸かる自分の姿が思い出された。仕事を終えたあとの一日を締めくくる至福のひと時。
 あれ? 私って仕事は何してたっけ?
 ところどころピースがはずれたパズルのように私の頭は記憶の断片が欠如している。その断片を手探りに探そうと試みる。
 記憶の中の湯船に小さな蜘蛛が浮かんで見えた。苦しそうにもがく蜘蛛を手のひらに乗せ、脱衣場に逃がしてやった。記憶はそこで途切れる。
「箱には鍵が掛かっている。逃げるなんてぜったいに不可能だ」
 箱の外で男の声がした。
「あなたはだれ? どうしてこんなことをするんですか」
「このまま沈めれば、穴から水が入って、ジ・エンドだ」
 私の問いには答えず、男は話しつづける。ほかにも周りに人がいるらしく、ざわめく声が箱の中で震える私の耳にも聞こえた。
 理由はわからないけど、どうやら私は声の主によって手首を縛られ、箱に入れられたようだ。
 箱の中に風が吹き込む。いったい私が何をしたというのだ。惨めな気持ちになって涙が滲む。
 ギギギと音がして横になっていた箱が縦に傾いていく。やがて足が箱の底につき、私は箱の中でなす術もなく文字通り立ち尽くす。ロープにくくられた箱がクレーンで吊り上げられ、海に沈められるところを想像した。ぶくぶく沈む箱に海水が溢れかえり、息が止まるまでの苦しみに身悶える。そんな死に方だけは絶対にしたくない。
 板を貼りあわせたような作りの箱がきしみながら大きく揺れた。観覧車に乗ったときの揺れにも似た感覚が足下から這い上がる。
 次の瞬間、ドンという衝撃が起こり、箱が浮遊するのがわかった。いよいよ沈められるのだ。
 なんとかしてここから脱出しなければならない。だけど手首を腰のあたりで縛られている。逃げ出すことは不可能だ。
 どうすればいい。死を目前に私は必死で考える。脳の血管がドクドクと音を鳴らす。そんな私を嘲笑うかのように、外からこの様子を楽しむような賑わいにも似たざわめきが聞こえた。
 小さく開けられた穴から蛇口を強くひねったように水が入る。あっというまに箱は水で満たされ、沈んでいく。どんどん光が失われ、沈んだ箱の中で、視界は闇に包まれる。
 そのときだ。どこから入ったのか目の前に光り輝く糸が揺れていることに気がついた。頼りなげな光ではなく剣のように強い光を放っている。
 一縷いちるの望みをつなぎ、必死で手首を動かす。糸は暗闇で私を導くように光っている。
 やがて糸は縛られた私の後ろ手に触れた。かなり丈夫な糸だ。
 意識が朦朧もうろうとする中、私は後ろ手でその糸を握った。地獄からの脱出に望みを懸けた。
 そうしてつかんだ糸をたぐった瞬間、箱は木枠を残し、水中でバラけた。
 私は足をばたつかせ、水面を目指す。
 プハァ。ようやく息をつくことができた。
 天国にでも打ち上げられたように煌々こうこうと灯りがともる。それと同時に周りから盛大な喝采が起こった。
 え、なに? なんなのこの拍手?
 鼓膜を震わせる拍手と歓声に私の脳は止まっていた時間を遡る。
 思い出した。私は奇術師。
 エンターテイメントとして派手なアクションをして箱に入ったとき、あやまって後頭部を打ち、わずかだが記憶を失っていたのだ。
「不可能と言われた世紀の大脱出が成功しました!」
 会場に司会の声が響き、ふたたび割れんばかりの拍手がこだまする。
 手首を縛られた状態で箱に入れられ、その箱に鍵をかけて水槽に沈める。脱出は不可能と言われていた。それを見事に成功させたのだ。
 種明かしをすると、箱は丈夫で透明な糸を使って組み立てていた。糸は一箇所で束ねられ、引っ張ることで分解される仕組みになっていた。
 それは浴槽で助けた蜘蛛からヒントを得た脱出方法だった。
 蜘蛛の糸を操る奇術師。
 それがのちに私に与えられた称号だ。
(了)