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第35回「小説でもどうぞ」選外佳作 白寿婆 根木乃芽絵

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小説・シナリオ
小説でもどうぞ
第35回結果発表
課 題

名人

※応募数234編
選外佳作 

白寿婆 
根木乃芽絵

「ではもう一度生年月日を教えてください」
「大正十五年十一月七日です」
「大正生まれですね。それは素晴らしいです」
「そうですかね〜。ここまで長く生きるなんて思ってもいなかったし、もう早くあの世に行きたいですよ」
「そんなことおっしゃらないでください。お元気で長生きされていることはとても凄いことなんです」
「でも、娘家族に迷惑をかけているし、私なんて生きていても何も役に立たないし、夫も息子も、両親も姉妹も兄たちもみんなあっちへ行ってしまって、私はひとりぼっちですからね〜」
「娘さんがご一緒に暮らしているではないですか? それに両足の大腿骨を骨折して手術してもちゃんとご自分の足で歩くことができてます。ヒサコさんのお年で持病もなく認知症の兆候もなくお元気な方は少ないですよ」
「そうですか〜? 娘は夫と別居して私の介護をしているせいか、あたりがきついのですよ。女の子ならもっと優しい物言いもあると思うんですけど。いつも叱られてばかりです。ほんとに私なんて何も役に立たないのに長生きしているなんて、嫌になりますよ」
 母と訪問看護師との会話である。母の言い草に喉まで反論が上がってくるが、それをグッと抑えて透明人間に徹している。私以外の人間と会話することが目的なので口出ししては台無しだ。
「ヒサコさん、いろんな花が咲いてとても気持ちの良い季節になりました。たまには外出されてますか?」
「いいえ、訪問リハビリでマンションの駐車場を歩くぐらいです」
「あの外出用の歩行器を使ってですか?」
「そうです。だから遠くへは行けません。おまけにこれもぶら下げているし。こんなものを持ったままお店とか入れません」
 母は蓄尿袋を少し憎らしげに見てため息をついた。
「でも、ヒサコさんの場合はこのポシェットに入れてしまえば全然分かりません。大丈夫ですから、たまには外食でもしてみたらどうですか?」
「でも、なんだか人に臭うように思えるんですけど。これはもう死ぬまで外れないのですかね〜?」
「尿が出なくなる方が大変ですから、自力で出せないヒサコさんの場合は仕方ありません」
 母は高齢のせいで膀胱の働きが悪くなり自力での排尿が困難になった。四年間ほど私が自己導尿器を使って膀胱に残った尿を取っていたが、導尿する回数が増えてきたため留置タイプの導尿に切り替えたのだ。
「今年のお誕生日は九十八歳で数えでは九十九歳、白寿ですね? お祝いに何が欲しいですか? 食べたいものとか?」
「九十九歳ですか……お祝いするほどのことですかね? ただ年をとっただけですから。それに何も欲しいものはありません。あの世に行くだけの私にはもう何も入りません」
「そんなこと、ダメです! 百年を生きられる人間なんて多くはないのですよ。何か食べたいものはありませんか?」
「美味しいものが食べたいけど……」
 あれ、さっき何も入らないって言わなかったかな?
「美味しいもの? カニ、エビ、ウニ、うなぎ、お寿司、焼肉、いろいろありますね。なんでしょう?」
「そうね〜」
 母は答えない。いや、答えられないのである。どれも定期的に食べているからだ。毛ガニは先週食べたばかりだ。エビも冷凍庫に常備している。ウニは生ウニより瓶詰めの塩ウニの方が好みだ。うなぎも冷凍だがスーパーで国産品を購入し、うな丼にして月いちの割合で食べている。お寿司に関しては握り寿司より巻き寿司、それも太巻きが、生ちらし寿司より五目ちらし寿司が好きである。焼肉も入れ歯にやさしい肉を選んでいる。おそらく、いや、きっと恵まれた暮らしをしている高齢者だと思う。
「まだ先ですから、ゆっくり考えてください。あまり高価なものは贈れませんけど」
「いいえ、気を遣わないでください。何も入りませんし、欲しくありません」
「さあ、あと少し時間がありますから、肩でもマッサージしますね」
「肩より腰をさすってください。今朝から腰が痛くて……」
「はい、分かりました。ここですか?」
 看護師は母の腰をさすりながら
「ヒサコさんの子供のころ、好きな食べ物とか何でした? 昭和初期ですよね?」
「豆売りがチリンチリンと鈴を鳴らしながらやってくるの。その音が聞こえたら、母にお金を貰って急いで豆売りのところまで走って行って、出来立ての炒り豆を紙袋に入れてもらって、ポリポリ食べるのが好きでしたね〜」
「へえ〜豆売りですか?」
「とうもろこしの粒をさじ一杯分持って、ポップコーンを目の前で作ってもらったり、綿あめ作ってもらったり……。
 でもほとんど何もない時代だったから、母が手作りしたものがおやつでしたね。お菓子ではなくて焼き芋とかが多かったかしら。母はなんでも手作りしていました。味噌、醤油、畑では芋や野菜などね。
 そうそうビスコは昔からあって母に食べたいとねだったら、『あれはお金持ちの人が食べるもので美味しくないよ』と諦めさせられたこともありました。でも、いつかはビスコが食べたいな〜と思ってました」
 ビスコも定期的に購入し仏壇に供えた後、しっかり母が食べている。
「すごい記憶力ですね。また今度聞かせてください。昭和初期、戦争前の様子なんて私たちにはとても新鮮です。ヒサコさんは長生きの名人ですね」
「名人? 長生きしたら名人なの? 聞いたことない言葉ね」
「長く大変な生存競争を生き抜いた、いえ、勝ち抜いてきた名人と言えます。誰でも元気で百年を生きられるわけではありません。ヒサコさんは百年間の庶民生活の生き証人なのですよ」
 長生きの名人はちょっと美化しすぎの言い方だが、生きた証人であることは確かだ。かなり好意的な解釈である。これまで母の長生きの秘訣は我儘の達人になったことであり、その報いで死んだら白寿婆という妖怪になってこの家に取り憑きいつまでも私を苦しめる、と思い込んでいた。
「やっぱりお母ちゃんが作ったちらし寿司が食べたいな〜」
 母が究極の我儘を吐いた。
(了)