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第35回「小説でもどうぞ」選外佳作 当店のルール 海老原葉冷

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小説・シナリオ
小説でもどうぞ
第35回結果発表
課 題

名人

※応募数234編
選外佳作 

当店のルール 
海老原葉冷

 夕方のワイドショーの1コーナー「名人のいるウマい店」でうちが放送されたあと、夫は店内の壁のいちばん目立つ場所に、番組から贈呈された名人認定書なるものを額装して飾り、それが目に入るたび「名人だってよ、この俺が」とにやにやしている。
 子を授かれなかったあたしたち夫婦が、そのぶんの愛情を注ぐようにして育ててきた小さなこの店が評価されただけでなく、洋食の名人、なんて立派な称号まで頂戴したのだ。浮かれるのも無理はないし、あたしだって気をつけてないと頬が緩んできてしまう。
 ある日、名人っぽく見えるからというただそれだけの理由で夫がいきなり丸坊主にしてきた。お調子者の夫らしくて微笑ましかったけれど、変化はそれだけでは終わらず、数日後にはコックコートを脱ぎ捨て墨色の作務衣を身に纏いだした。ハンバーグやフライが売りの、いわゆる街の洋食屋であるうちにはちょっと似合わないのでは、というあたしの意見も「名人はこれでいいの」と一蹴された。本人が楽しそうだし、いっか。
「ダイエットする。名人てのはたいがい痩せ型だ」たるんだお腹をさすってそう宣言してから、味見を除けば生野菜とお豆腐しか口にせず、ものの数週間でロールパンのようだった体はみるみる痩けていった。まあ、肥満よりか健康的だろうし、仕事に支障は出ていないし、昔からの常連さんたちも「名人名人」なんて囃し立てては喜んでいるし、なにより客足も売り上げも伸びているのだから、夫の気の済むまで見守ることにあたしは決めた。

「これから俺は店で寝泊まりする。四六時中、その道に身を委ねてこそ名人である」
「名人にスマートフォンやタブレットなどの電子機器は似合わない。土に埋めてきなさい」
「わしは毎朝、滝行にゆくことにした。清澄な精神は清澄な肉体にこそ宿る」
 とうとう自分のことをわしと呼びだした。名人というよりもはや仙人じみてきている気がするが、あたしは静観に徹した。

 ランチの仕込みに出勤してゆくと、床に座禅を組んで念仏を唱えていたすっぱだかの夫が「見えたっ」と叫んでこちらへ駆け寄ってきた。血走った目を見開いて、枯れ枝のような手であたしの肩を掴んで何度も揺さぶる。
「し、新メニューには猿頭霜とタニシの粉末を使おう。あとは大徳寺納豆に葉セロリに……よし、これこそがきゅうきょきゅの、きゅ、究極のっ。いひ、いひひひひ」
 こりゃあダメだ。
 あたしはキッチンの壁にかけてあるおたまを引っ掴んで夫の頭頂部に叩きつけた。「くわおーーん」と近未来的な音が店内に響き渡ると同時に膝からくずおれた夫を、慌てて抱きかかえる。キョトンとしたその顔を見下ろしていると、なんだか泣けてきてしまった。
「いい加減にしてちょうだいっ。あなた無理のしすぎでおかしくなってるわ。なにが名人よ。そんなのどうでもいいから、元気なあなたに戻ってよ」素早い瞬きを幾度か繰り返したあと、夫は久しぶりにあたしの名を呟いた。

「いやあどうかしていた。ここしばらくの記憶があやふやだもの。肩書きの魔力ってのは実に恐ろしい。気づかぬうちに、ノイローゼになっていたみたいだ」あたしが入れてやった熱いココアを啜るように飲んで、夫が深いため息を吐く。
「もっと早めに止めてあげればよかったけど、頑張っていたから……ごめんなさい」
「おまえはなにも悪くないさ。心配かけたな」
 夫は名人認定書の額を取り外して「そもそもわしは……いや俺は名人なんて器じゃないしなあ」と寂しそうに笑った。

 お客様各位
 店主に名人と呼びかけるのはどうぞお控えくださいませ。緊張してしまいます。キャンペーン中につき、このルールを守っていただいたお客様には、食後のコーヒーを一杯サービスさせていただきます。何卒よろしくお願い申し上げます。

 認定書を飾ってあった場所に、代わりにそう貼紙をした。皆の協力の甲斐もあって、夫はだんだんと元の姿に戻っていった。たまに「有名人」や「名人戦」なんてワードがお客さんの方から聞こえてくるとぴくん、と体をこわばらせているが、ノイローゼもだいぶ良くなってきたようだ。ハマってしまったらしく、週に一度の滝行だけは続けているが、それはよしとした。
 番組の放送直後みたいな大行列はないけれど店はけっこう繁盛している。夫は今日もふくふくと笑い、湯気を立てる料理の皿を「あがったよ」とカウンター越しに差し出してくる。あたしはそれを受け取りながら「今日もとっても美味しそうよ、名人」と心の中でエールを送る。
(了)