第35回「小説でもどうぞ」選外佳作 名人のりこ 志賀廣弥
第35回結果発表
課 題
名人
※応募数234編
選外佳作
名人のりこ 志賀廣弥
名人のりこ 志賀廣弥
〈人に頼りにされることが多い〉
はい、いいえ、どちらでもない、の項目のどれに丸を付けたらいいのか、のりこの手は一瞬止まった。
他人から何か相談をされることは多かった。相談、というよりは相手が自分の気持ちを吐露するのを聞いてあげているだけだったが、人にはそれがいいらしく、よく相談を、と持ちかけられた。自分ではあまりそんなふうに思ったことはなかったが聞き上手と言われることもあった。
それを頼りにされているといっていいのなら、はい、な気もしたが、どうか。
のりこは人の話を聞く以外にもよく、それは物理的に、寄り掛かられることも多かった。それを考えると、はい、に丸を付けたいような気がした。
電車で座席に座ると、かなりの確率で隣の人に寄り掛かられた。
世の中には電車に乗るとこんなにも眠くなる人が多いのかと思うほど、隣になる人はうとうととして眠り出す人がほとんどだった。自分から何か眠りを誘う物質でも出ているのだろうかと真剣に肩の辺りを嗅いでみたこともある。でも別に得体の知れない誘引物質が出ているわけではなく、眠たい人の隣に座ってしまう確率が異様に高いのだった。
電車通学をするようになった高校生の頃は、それが嫌で仕方なかった。知らない人に肩を貸す筋合いなんてない、と寄り掛かって来る人を避けたり押し返したりしていた。それでも起きないで全身の重みを預けてこようとし続けられると、仕方なく席を立った。どうして自分が動かなければいけないのだ、と腹を立てることも多々。
しかし年を重ねていくうちに、そんなに眠いのならばもうこの肩を貸してやろうという、どっかりとした気持ちを持てるようになった。今や、のりこが揺れる車内で眠る人に肩を貸す、その素晴らしきやり方は名人級と言っても過言ではなかった。
右に左にと体が揺れ出すのを横目で確認すると、よしよし来ても大丈夫よ、と心のなかで小さく頷く。どうにもならない眠気と、公共の場で知らない人に凭れないようにしようとする理性とで、人の体はおもしろいくらいに揺れて揺らぐ。はじめのうちは、ちょっと肩に触れるだけ。ここで、はっとして起きて謝る人もいる。でも謝ってもまたそのあと同じように揺れ続ける人も多い。
のりこは数多くの経験から、自分の肩と相手の頭のベストポジションを探すのに長けていた。おそらく傍から見ていると、はじめのうちは凭れかかってくるのを嫌がって肩を上げたり下げたり体を動かしているように見えるだろう。でもそれは違った。揺れに合わせて何度か肩が触れる度、その位置を調整しているのだった。
睡魔に抗うように眠る人もいれば、ここは自宅なのかと思うほど深く眠る人もいる。特に後者にいたっては、遠慮のない全身の力をこちらに預けてくる。そんな時に、よい位置に頭が来ないとこちらも辛い。避けることよりも互いにいい位置で眠らせてあげる、眠る、をした方が最善だと最近ののりこは思うようになっていた。
揺れて肩にぶつかり、起きて、それでもまだ眠く、何度もそれを繰り返しているうちに、完全に眠りに落ちたとき、そのときにぴたりと自分の肩と相手の頭が合うと、のりこは少し誇らしくなるのだった。
そうなると、その人の体はもう動かなくなり、納まるところに納まったという感じで頭はのりこの肩のちょうどよいところに落ち着く。ちょうどよい位置を探り当てているので、のりこの肩も痛くはない。
よほど心地よいのか、すっかり眠ってしまって起きる気配もない人に、何だか動くのが申し訳ない気持ちになってしまい、自分の降りる駅を越してしまったこともある。ときには両肩を貸すこともあったし、肩だけではなく、体ごと崩れるように眠ってしまった部活帰りのような中学生の女の子には膝も貸したことが、それは一度だけだがあった。
そういうのも一応、頼られるということになるんだろう、と前向きに考え、のりこははい、に丸をつけて鉛筆を置いた。
回答用紙を手に受付に持って行き、係の人に渡すと、ざっとすべてに目を通して確認したその人は、
「丸の名人ですね」
と感嘆した声で言った。え、と思わず大きな声が出てしまい、相手も驚いて、お互いにすいません、となる。
「いえ、あの、囲んでいただいた丸がどれもあまりにきれいな丸でしたので、すいません」
え、ああ、あはは、とのりこは笑って会釈をしてその場を去った。
丸の名人、って何なんだと思いながら外に出て改めて笑いが漏れた。よくわからなかったが、褒められて何だかうれしかった。きれいに描こうと思ってそうなったわけではなかった故、よけいにうれしかった。
鼻唄まじりに地下鉄の駅に向かい、乗った電車で座ると隣の人が揺れ出した。よしよし大丈夫よ、と思いながら、もしかしたらわたしは丸の名人でもあるが、肩貸しの名人でもあるかもしれない、と思った。変なの、ふふふ。と思わず笑みが漏れる。
この日、のりこが肩を貸した人は棋士だった。そして下車して向かった先で、名人戦に勝利した。勝負後のインタビューで、ここに来るまでの電車で隣の人が肩を貸してくれ、ぐっすり眠れたので頭がすっきりしたから勝てたのかもしれないと語った。
その記事をのりこが読むことはなかったが、〈名人に肩を貸す名人〉に肩を借りると、勝負事に勝てるというまことしやかな噂が流れるようになった。
のりこは何も知らず、今日も見知らぬ誰かに肩を貸している。よしよし。
(了)