【地図井式|特別編】文学フリマを選んだ理由 どうしても諦めれられない作品があって
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ご存知の方も多いと思いますが、5月11日に東京ビッグサイトで「文学フリマ東京40」が開催されます。
私も出店いたします。
前にも記事で触れたことがありますが、公募スクールに別名で応募して、この5月のために1年間準備していました。約500ページの自費出版は初めてで、これまで書いたものと新しく書いたものを織り交ぜて5編書きました。
落選品も含まれます。落選供養しあぐねて拗らせたものを具現化することで、書き終わった過去を乗り越えたいと思って出店を決めました。
どうしても忘れられない作品があって
自分のクリエイティブでどうしても忘れられない作品が心に浮かんだ時、いやいやあれは落選したのだ。過去のものなのだ。次のを書かなければならない、と自分に言い聞かせ、忘れよう忘れようとしてきました。
別の仕事に没頭したり、過剰に遊んだりして忘れようと思ったけれど、ここ数年忘れられなくてずっと心の深いところで苦しんでいました。
自覚できていなかったときはわからなかったのですが、ずっと動けないでいたことの理由がそれであると自覚してからは、過去の作品をこれからどのように昇華できるか考えるようになり、私は動きながらではないと考えられない性分なので、いくつかためしたことがありました。
そのうちの一つが、本の自費出版という思いつきでした。
具現化ということがきっと、私の区切りになりやすいだろうということは、書くことから逃げていたサラリーマンの時期に経験していました。
渾身の企画や提案が、ほかのモノと比べられて没だった時、悔しさから抜けるために、キラキラに脚色して没提案として社内の若いメンバーに共有して「ほらこのクオリティでも没なんだよ!」と選ばれなかったみじめさを、恨みがましくアピールしていました。
自分個人で抱えていては「頑張ったけどダメだった経験」が積み重なって身動きが取れません。
しかし没や失敗も、堂々と発表し、転ばぬ先の知識としてまとめて、とにかく何か他人に見える形に残れば、一つの物語として笑われたり同情されたり、批判されたりしながらも他人のものにもなるということが、時として自分の身を軽くするんだなと知りました。
サラリーマン時代にそんなことがあったので、心残りの没や落選を、正しく腐らせてちゃんと肥やしにするには、ちゃんと具現化しないとだめだなと思ったのです。