第48回「小説でもどうぞ」最優秀賞 約束 吉川歩


第48回結果発表
課題
孤独
※応募数439編

吉川歩
会社を送り出される時にもらった納会の案内を、駅に着くまで握りしめていた。誘ってくれたのは嬉しかったが、納会は来月だ。今日の定年を期に会社を離れる私に、参加する資格はあるのだろうか、と遠慮する気持ちがあった。
四十年近く、私はこの製薬会社で働いてきた。研究者として創薬に携わり、研究成果で賞を受けたこともある。大きな仕事も任せてもらい、充実した仕事人生だった。再雇用の話もあったが、今は休んで先のことを考えたかった。
振り返ると、達成感の反面、孤独だったとも感じる。私は結婚しなかったし、職場は男性が多く、女性だからという理由で不遇を受けたこともある。歳を重ねてチームを束ねる立場になると、責任ばかりが増えて、つい口うるさくなった。裏ではきっと煙たがられていただろう。納会に出るのはやっぱりやめておこう。
唯一信頼し合えたと思えるのは、友杉さんだ。大昔の上司で、今から三十年も前、五年ほど一緒に働いた。私よりも歳は十ほど上で、少々抜けているが、温厚篤実な人柄。料理と実験が得意で、何度かご家族のいる家に呼んでもらったこともある。
ある日、いろいろな事情があり、友杉さんは他社に転職することになった。その時に真顔で言われた。
「カネコさん、いつか呼びにくるから、また一緒に仕事しような。約束だ」
去っておいて呼びに来るというのも勝手だ、と抗議したが、友杉さんは人の良い丸顔で笑うばかりだった。本気で信じたわけではない。だが、そう思ってもらえる人になる、というのが仕事の上でのそれからの目標になった。
友杉さんとは、その後も何回か飲みに行ったが、もう二十年以上会っていない。仕事も忙しかったし、子供っぽい意地もあった。友杉さんは、今ではあんな「約束」など忘れているに違いなかった。
家に帰ると、郵便受けに一枚の葉書が入っていた。私は凍りついた。それは友杉さんが病気で亡くなったという知らせだったのだ。
葬儀は翌日だった。私は逸る気持ちを抑えて斎場に赴いた。斎場には、なぜか、両親に連れられた小学生くらいの子どもたちが何人もいた。
読経が終わると、私の知らない、痩せた青年が弔辞を読んだ。
「友杉さんのカフェは地域に愛されてきました。毎週水曜には子ども食堂を開き、地域の子どもたちにおいしいご飯を無料で提供してきました。友杉さんのビーフカレーを二度と食べられないことを悲しんでいる人が大勢います。同じ店のスタッフとして、友杉さんのような人と一緒に仕事ができたことは、ぼくの大きな財産です」
カフェ? 子ども食堂? あぜんとした。初耳だ。友杉さんは、ライバルの製薬会社に勤め上げたのではなかったのか。
弔辞は続く。ひとりで子どもを育てているという父親が、友杉さんの子ども食堂に通った息子がシイタケを食べられるようになった、と感謝を述べていた。
和やかな式の中で、私は、裏切られたような気がした。また一緒に仕事しような、と友杉さんは言ったではないか。あの「約束」を忘れたことは許せる。だが、研究者として仕事は続けているものだと思い込んでいた。
出棺が終わるなり帰りかけた私をだれかが呼び止めた。立っていたのは、弔辞を読んだ青年だった。友杉さんから私の話を聞いた、と彼は言った。
「よく私だと分かりましたね」
「うちの店に新聞の切り抜きがあるんです。そこで、お写真を拝見しまして。研究で賞を取られたとか。前の会社の後輩なんだ、と友杉さんに自慢されましたよ」
意外な答えだった。私は尋ねた。
「友杉さんは研究者をお辞めになったんですね」
「働きすぎで、体を壊したんです。病気を治す薬の次は、健康を守る料理を作って、人に食べてもらいたい。それで、カフェを開いたと聞きました」
「一言教えてほしかったなあ。私はカフェのことすら知らなかった」
「お忙しいから、遠慮したんじゃないでしょうか。カフェの店長と研究者じゃ一緒に仕事できないだろ、と言っていましたよ」
まさか一緒に仕事する気だったのかな、と青年は笑った。私も笑ったが、それは彼とは違う理由からである。友杉さんは「約束」を覚えていてくれたのだ。
「遠慮なんか、しなくても良かったのに」
口にしてから、友杉さんも同じことを私に言うかもしれない、と思った。
帰り道、同僚から、納会の細かな案内が届いた。メッセージの末尾に「みんな、カネコさんに会いたがってます!」と書いてある。
友杉さん、と私は心の中で語りかけた。人にどう思われているかは、この歳になっても分からないもんですね。私は、自分で思っていたほど、孤独ではなかったのかもしれません。
(了)