【読者を釘付けにする言語化のコツ】「すごい」と書くのではなく「すごさ」を具体化して書こう


ふわっとした表現に「具体的には?」と突っ込め!
抽象的、総称的、実感がわかない表現を廃し、具体的に書いていこう。
アバウトな表現で済まさないで
よくよく考えると具体性のない言葉を使ってしまうことはよくある。「きれい」などがそうで、これだけではどうきれいなのかわかりにくいし、基準もわからない。
こうした表現を避けるには、頭の中に絵を浮かべる癖をつけるといい。その絵を言葉にしていけば、自ずと具体的になる。
厳密に言えばどれが適切な表現か
同じことを書くにしても、言い方は無数にある。たとえば、同じ「歩く」でも、「闊歩」「散歩」「練り歩く」「のし歩く」「ウォーキング」「とぼとぼ歩く」「すたすた歩く」といろいろある。
あまり厳密に考えすぎると筆が止まってしまうが、わずかな違い、ニュアンスに敏感になろう。
ふわっとした表現の3つの例
やってしまいがちな3つの例をピックアップ。
“言った。”
問題点
セリフに連動する説明文では「と言った」と書くことが多いが、いつも「言った」では芸がない。より適切な言いまわしをしよう。
解決策
「言った」の別の言い方、たとえば、「話した」「語った」「しゃべった」「仰った」「言われた」などを探す。または、どういう状況で言ったかを描写する。
例(「言う」の別の表現)
・吐いた。
・ぶちまけた。
・つぶやいた。
・漏らした。
“筆記具。”
問題点
「筆記具」自体は平易な言葉だが、鉛筆や万年筆などあまたある道具の総称。具体性はない。漢語は総じて抽象的な概念であることが多い。
解決策
総称は「色鉛筆」のように具体的な言葉にする。ただし、漢語自体が抽象的なので、時には「色つきの絵や字が書ける芯を埋め込んだ棒」とかみ砕くことも。
例(筆記具を具体的に)
・鉛筆
・ボールペン
・シャープペンシル
・万年筆
“すごい。”
問題点
「すごい」は、「ああ」や「わあ」といった感動詞のようなもの。どんなシチュエーションでも使えるが、具体的な意味はない。
解決策
抽象的な言葉が出てきたら、「どのようにすごい?」「何と比べてすごい?」と突っ込んでいく。「すごい」と書くのではなく、「すごさ」を書いていく。
例(秀逸な文章を読んだとき)
・我を忘れて没頭したくらい。
・自分史上、三本の指に入る。
・頭を棒で殴られたような衝撃。
・心が打ち震えるような感動。
どこを掘り下げるか、そこが問題
文章は具体的であればすべていいわけではない。
〈最初は犬を連れた女性だとしか思わなかった。しかし、話しているうちに、三十年前に隣に住んでいた幼なじみだとわかった。〉
ここで掘り下げたいのは「三十年ぶりに再会した驚き」だが、以下のようにしたらどうだろう。
〈最初は犬を連れた女性だとしか思わなかった。犬は毛がふわふわのホワイトテリアで、齢十歳以上の老犬に見えた。彼女と話しているうちに、三十年前に隣に住んでいた幼なじみだとわかった。〉
具体化するところを間違うと、それがあだとなってしまう。
ふわっと言っておいて、あとで詳しく書く手も!
〈お手軽な公募にしか挑戦できない。〉の「お手軽な公募」には具体性がないが、そう書いていけないわけではなく、これをフックにすればいい。つまり、〈お手軽な公募、具体的には原稿用紙5枚以下の〉のように書けば、抽象性と具体性を併せ持つことができる。
具体的に掘り下げてみよう!
生の感情は説明しない 実感でわからせる
悪い例①
久しぶりに会った友人は稼ぎがいいらしく、羽振りがよかった。毎日が酒池肉林といった生活で、うらやましい限りだった。しかし、どこか寂し気に見えたのは、彼には家族がいないからだろう。
POINT
「久しぶりに」「羽振りがよかった」「うらやましい限り」「寂し気に」を具体化する。
添削後
三年ぶりに昔の同僚と会った。遺産の土地にアパートを建て、その家賃収入を元手に株で大儲けしたそうで、高級マンションに住み、ポルシェに乗り、毎日パーティー三昧だと言う。私など逆立ちしても一生手に入らないものばかりだ。「これで子どもでもいれば別だが、金はあの世には持っていけないからね」と彼は笑った。
悪い例②
審査の結果が公表され、惜しくも地方文学賞受賞を逃した。これにも懲りず、次はちゃんとした文学賞を狙おうと思っている。明日は早めに帰宅して、近所の店でプロットを練るつもりだ。
POINT
「惜しくも」「ちゃんとした」「早めに」「近所の店」をあえて数値化、固有名詞化する。
添削後
審査の結果が公表され、地方文学賞受賞を逃した。3次選考までいったので期待したが、今回は別の人が受賞した。しかし、ある程度の力はあると自信が持てたので、次はプロの登竜門の群星新人文学賞を狙おうと思っている。明日は仕事を午後5時に終わらせ、自宅の2ブロック先にあるマクドナルドでプロットを練るつもりだ。

よじれ文
「よじれ文」とは、修飾語と被修飾語の関係(係り受け関係)がおかしいこと。
〈本書の特徴は、安価で読みごたえがあるのが特徴だ。〉
係り受け関係の核を取り出すと、「特徴は ↓ 特徴だ」となっている。誤りではないが、しっくりこない。
〈ここでボール遊びや大声を出してはいけません。〉
「ここで大声を出してはいけません」のほうはいいが、「ボール遊び」は受ける言葉がなく、「ここでボール遊びを出してはいけません」とつなげると、日本語としておかしい。
このように日本語には、こう言ったらこう受けるという型のようなものがある。
〈川柳を始めたのは、お手軽で楽しい。〉
「川柳を始めたのは」と言えば、このあとで「だからだ」と理由を述べないとおかしい。
〈私には到底歯が立つ。〉
「到底」や「少しも」「必ずしも」「決して」などは否定で受けるのが普通。
なお、「全然」については肯定で受けてもいい(大正時代ぐらいまでは肯定でも受けていた)が、現代の文章語としては違和感がある。
一文一義
以下のような文章がある。
〈急な雨に降られたので、民家の軒下を借り、間が持てず、スマホでメールのチェックをしていると、それまで暗雲がたれこめていた東の空は南のほうから少しずつ明るくなっていった。〉
読み切れなくもないが、少し長い。ただ、長いことが問題なのではなく、1つの文章の中に言いたいことが2つ以上あることに難がある。理想的なのは、1つの文では1つのことを言い、それが終わったら文を切ること。
前の例文であれば、〈急な雨に降られたので、民家の軒下を借りた。〉でいったん切る。そして、
〈間が持てず、スマホでメールのチェックをしていると、それまで暗雲がたれこめていた東の空は南のほうから少しずつ明るくなっていった。〉
とつなげる。1つずつ小出しにしたほうがわかりやすい。
ただ、それも程度問題で、〈急な雨に降られた。民家の軒下を借りた。間が持てない。スマホでメールのチェックをした……。〉のように書くと、文章に滑らかさがなくなる。
※本記事は2019年4月号に掲載した記事を再掲載したものです。