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【読んだかいがある文章とは】構成は保守的でも、内容には新しさを!「気づき」が書かれていると読者の満足度は上がる

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予定調和の結論に「それでいいの?」と突っ込め!

文章の中に「へえ」「そうなんだ」という気づきを盛り込もう! 誰が書いてもそうなる、という結論では面白くない。

構成は同じでも、内容には新しさを

なんにしても新しさは必要だが、こと構成に関しては保守的でいい。

起承転結、論文形式など構成法はなんでもいい。導入部があって、論理的に話が展開し、最後にまとめがある形式にすれば、誰が書いても似たような構成になるはずだ。

言いたいことがすっきり伝わるのであれば、定番の形式でいい。

最低でも1つ、気づきが欲しい

構成は定型でも、中身は「どこかで読んだことがあるような」では面白くない。ポイントは2つあり、まずは題材の新しさ、まだ誰も取り上げていないような新しい話題を狙う。もうひとつは、そこからどんな気づきを得るか。これがあれば読み手は読んだかいがあったと思う。

気づきを得るのは最高の喜び

文章を読んで、「へえ」「そうなんだ!」「確かに」と思わされるのも楽しいが、一番楽しいのは書いている本人。気づきを得て、脳内から快感物質が出て、気持ちいい状態になっているはず。

気づきはリラックスしているときにハッと思いつくこともあるが、書きながら気づくことも多い。気づくために書くのも手だ。

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チッ考

昔からある舌打ちの音は「ちぇーっ」という間延びした音で、多くは自分に向けて「残念」という意味で打つ。一方、うっぷんを晴らすように相手に向けて放つ舌打ちもあり、こちらは文字にすると「チッ」だ。

以前、ある先生のことを嫌っている生徒がいて、先生が何か言うたびに、聞こえるか聞こえないかぐらいの微妙な音で「チッ」「チッ」とやっている生徒がいた。彼にとってはその教師の存在自体がストレスらしく、そのはけ口としてやっているようだった。

人に向けて舌打ちをする人は、自己中心的で、人を見下したところがあり、攻撃性も強い。一方、心に余裕がなく、面と向かって文句を言えない小心さも持ち合わせている。

同情したくなる面もあるが、舌打ちされるほうはたまらない。その日一日は嫌な気持ちで過ごさなければならないし、「目には目を」で舌打ちを返せば、世の中、殺伐としてしまう。

こういうのは受け流すのがいい。それが大人の対応だが、さらに発想を変え、あれは挨拶のようなものだと思えばいい。実際、外国には感動したときや相槌のときに舌打ちをする国もあるそうだ。

気づき1

昔からある舌打ちの音は「残念」という意味の「ちぇーっ」。一方、人を責めるように放つ舌打ちは「チッ」だ。

気づき2

舌打ちはストレスのはけ口としてやる。する人は攻撃性も強いが、面と向かって文句を言えない小心さもある。

気づき3

舌打ちは挨拶のようなものだと思えばいい。外国には感動したときや相槌のときに舌打ちをする国もあるそうだ。

悪い例①世間にモノ申す調
最近、人混みを歩いていると、あちらこちらから舌打ちする音が聞こえる。混雑を見て「チッ」、隣の人とぶつかりそうになって「チッ」、もたもたする老人に「チッ」。毎日十回以上聞く。
何かイライラすることがあり、その気持ちを晴らすように、聞こえるか聞こえないかぐらいの音で発する。彼らは誰かににらまれたら、偶然音が出たと言いわけするのだろう。向こうはすっきりするかもしれないが、その分、こちらには嫌な気持ちが残る。ああいうのはやめてもらいたい。

問題点
正論だから、同意する人も多いだろう。書くほうも気持ちいいし、正義感も満たされる。しかし、それだけ。新聞の投書なら問題提起になるかもしれないが、文章としてはあまり面白みがない。

悪い例②体験記風だが凡庸
先日、駅のホームを歩いていたら、向こうから四十代ぐらいの男性が歩いてきた。その人は私から見て右に寄ったのだが、ちょうど私も右によけたところだったので、私は慌てて左に方向を変えた。ところが、今度は向こうが左によけてしまい、ちょうどお互いに道をふさぎ合うかたちとなった。
「ごめんなさい」と言おうとしたが、その前に、すれ違いざまに、「チッ」と舌打ちされた。まるで私だけが悪いかのように、いまいましげに。
なんであんなことをするのだろう。

問題点
体験記風に書いているので、世間にモノ申す的な高飛車な姿勢がない。むしろ、同情してしまうが、「こんな嫌な目に遭いました。ひどい」という予定調和的な趣旨なので、読んでいて発見がない。

語尾とリズム

「語尾が揃うとリズムが単調になる」と言うが、問題は語尾ではなく、文章のリズムであることが多い。

〈昭和の終わり頃、初めてら抜き言葉が取りざたされた。中部・関西地方などではもともと方言として話されていた。それがテレビなどの影響で流布した。言葉として合理性があった。だから、またたくまに浸透した。〉

語尾がすべて「た」で終わっている。変えてみよう。

〈昭和の終わり頃、初めてら抜き言葉が取りざたされた。中部・関西地方などではもともと方言として話されている。それがテレビなどの影響で流布。言葉として合理性があったのだろう。だから、またたくまに浸透した。〉

リズムがよくなるどころか、むしろおそまつになっている。

〈初めてら抜き言葉が取りざたされたのは昭和の終わり頃だった。中部・関西地方などではもともと方言として話されており、それがテレビなどの影響で流布した。言葉として合理性があったから、またたくまに浸透したのだ。〉

変えるべきは語尾ではなく、文章の長短と抑揚だ。

名詞文と動詞文

名詞文は、〈日本人の旺盛な好奇心が西洋文明の受容を可能にした。〉のように名詞を中心に構成した文。

間違いではないが、どこか翻訳調で、硬い印象がある。

これを動詞文にしてみよう。

〈日本人は旺盛な好奇心のおかげで西洋文明を受け入れることができた。〉

ポイントは3つ。
●名詞をなくす
〈文章を書く難解さが私を苦しめた。〉
〈文章を書くことは難しく、これが私を苦しめた。〉

●形容詞を副詞に
〈実家の母の急な訪問に私は困惑した。〉
〈実家の母が急に訪ねてきたので、私は困惑した。〉

●無生物主語を換える
何に換えるかというと、原因、理由、手段、条件など。
〈応募人口の減少が入選の倍率を下げさせた。〉
〈応募人口が減少したため、入選の倍率が下がった。〉

〈受賞は過去作を熱心に読み込んだ賜物だ。〉
〈過去作を熱心に読み込んだおかげで受賞に至った。〉

文章表現の肝は、動詞をどう使うかにある。

※本記事は2019年4月号に掲載した記事を再掲載したものです。