第14回「小説でもどうぞ」選外佳作 いったん死去/山崎雛子
第14回結果発表
課 題
忘却
※応募数217編
選外佳作
「いったん死去」
山崎雛子
「いったん死去」
山崎雛子
うららかな春の午後でした。桜並木が道の両側から枝を差しのべあって、ピンクのトンネルを作っています。その下を、少し急ぎ足で歩いていくのは山本さんです。
誰かに名前を呼ばれて振り向くと、仲良しの吉田さんが笑顔で立っていました。いつものように老眼鏡が鼻から滑り落ちそうになっていますが、吉田さんは全く気にしません。
「どこ行くんだい」と、のんびり尋ねます。
碁敵である吉田さんの丸い顔を見るとつい、「一局打とう」と言いたくなる山本さんですが、今日はぐっと我慢です。
「これから葬式だ」
「誰のだい?」
「ええと」山本さんは、はたと考え込みました。「あれ? 誰だっけ」
「いやだね、忘れちまったのかい」はっはっは、と吉田さんが笑います。
「最近、人の名前が出てこなくなったなあ」
ごま塩頭を掻いて言う山本さんに、「構やしないよ」と吉田さんは手を振って言います。
「お互い、もうそういう年なんだもの。近頃じゃ葬式ばかりで、いつが誰の葬式かなんて、こんがらがってわからなくなっちゃうよ」
吉田さんはいつも穏やかです。碁を打つときだってそうです。吉田さんのほうが山本さんより少しだけ強いのですが、急所を打たれて山本さんが「あいたたた」と頭を抱えると、攻める手をそっと緩めて、山本さんの石を助けてくれるのです。
「吉田さんはどこ行くの」
「わたしも葬式さ」
「誰の?」
「ええと。……誰だっけ」
はっはっは、と今度は山本さんが笑います。「ここにも同士がいたぞ。しようがないね」山本さんは愉快そうに言いました。「まあ斎場に着いたら、自治会長の長谷川さんがきっと差配してくれてるから心配ないよ」
「あの人も葬式が好きだねえ」
「葬式であんなに生き生きとする人もないね」
「自分の葬式の時には、棺桶の中からあれこれ指図するんじゃないかい」
山本さんと吉田さんは、はっはっはと空を仰いで笑いました。
ひとしきり笑って、ふうと息をつくと吉田さんが言いました。
「訃報が届くたび、住所録の名前を一つまた一つと消していくだろう。あれは何とも言えない気持ちになるねえ」
山本さんも、うんうんと相槌を打ちます。
「皆忘れられていくのかねえ。さっきから俺も何か肝心なことを忘れてるようなんだが」
首を捻る山本さんを横目に、傍らの桜を見上げて吉田さんが呟きました。「だからじゃないかな」
「え?」
「だから忘れちゃうんじゃないかな、いろんなことをさ。全部覚えてたら、とてもやりきれないもの」
「そうか。うまくできてるねえ」
「そうさ、うまくできてるよ」頷く吉田さんでしたが、急に胸を張って続けます。
「だけどわたしは、今朝食べたおかずのことは忘れても、碁敵のことは忘れない」
吉田さんの宣言に、山本さんは吹き出しました。
「碁敵は憎さも憎し懐かししか。右に同じく。ああ、また打ちたくなってきた」
「その前に葬式だ」
「そうだな。急がないと、誰かしら主役が痺れを切らして待ってるぞ」
山本さんが明るい声で言うと、吉田さんは真面目な顔になって言いました。
「ここから先は、一緒には行けないんだ」
おや?と、山本さんは思いました。吉田さんの声が急に遠くなったような気がしたからです。でも、何も気づかなかったふりをして山本さんは言いました。「そうか。じゃあここで、いったんお別れだな」
歩き出して振り返ると、吉田さんが大きく手を振っていました。
「後でまた打とう」山本さんは碁を打つ真似をしながら言いました。
吉田さんが何か応えたようでしたが、声は風に飛ばされて聞こえませんでした。いたずらな風は薄桃色の花びらをいっせいに空に舞い上がらせました。と、傍らの木に貼ってあった一枚の紙がはらりと地面に落ちました。黒い縁どりの中に、墨で書かれた「山本家」。
山本さんがはっとしてもう一度振り返ると、吉田さんは眼鏡をはずして涙を拭っているところでした。山本さんは今、全部思い出しました。だから急いで前を向き、自分の葬式のそのまた先へと、どんどん足を早めて、しまいにはとうとう駆け出しました。
やがて山本さんの姿が見えなくなると、後には桜の花びらが点々と落ちていて、まるで足跡のように見えたということです。
(了)
誰かに名前を呼ばれて振り向くと、仲良しの吉田さんが笑顔で立っていました。いつものように老眼鏡が鼻から滑り落ちそうになっていますが、吉田さんは全く気にしません。
「どこ行くんだい」と、のんびり尋ねます。
碁敵である吉田さんの丸い顔を見るとつい、「一局打とう」と言いたくなる山本さんですが、今日はぐっと我慢です。
「これから葬式だ」
「誰のだい?」
「ええと」山本さんは、はたと考え込みました。「あれ? 誰だっけ」
「いやだね、忘れちまったのかい」はっはっは、と吉田さんが笑います。
「最近、人の名前が出てこなくなったなあ」
ごま塩頭を掻いて言う山本さんに、「構やしないよ」と吉田さんは手を振って言います。
「お互い、もうそういう年なんだもの。近頃じゃ葬式ばかりで、いつが誰の葬式かなんて、こんがらがってわからなくなっちゃうよ」
吉田さんはいつも穏やかです。碁を打つときだってそうです。吉田さんのほうが山本さんより少しだけ強いのですが、急所を打たれて山本さんが「あいたたた」と頭を抱えると、攻める手をそっと緩めて、山本さんの石を助けてくれるのです。
「吉田さんはどこ行くの」
「わたしも葬式さ」
「誰の?」
「ええと。……誰だっけ」
はっはっは、と今度は山本さんが笑います。「ここにも同士がいたぞ。しようがないね」山本さんは愉快そうに言いました。「まあ斎場に着いたら、自治会長の長谷川さんがきっと差配してくれてるから心配ないよ」
「あの人も葬式が好きだねえ」
「葬式であんなに生き生きとする人もないね」
「自分の葬式の時には、棺桶の中からあれこれ指図するんじゃないかい」
山本さんと吉田さんは、はっはっはと空を仰いで笑いました。
ひとしきり笑って、ふうと息をつくと吉田さんが言いました。
「訃報が届くたび、住所録の名前を一つまた一つと消していくだろう。あれは何とも言えない気持ちになるねえ」
山本さんも、うんうんと相槌を打ちます。
「皆忘れられていくのかねえ。さっきから俺も何か肝心なことを忘れてるようなんだが」
首を捻る山本さんを横目に、傍らの桜を見上げて吉田さんが呟きました。「だからじゃないかな」
「え?」
「だから忘れちゃうんじゃないかな、いろんなことをさ。全部覚えてたら、とてもやりきれないもの」
「そうか。うまくできてるねえ」
「そうさ、うまくできてるよ」頷く吉田さんでしたが、急に胸を張って続けます。
「だけどわたしは、今朝食べたおかずのことは忘れても、碁敵のことは忘れない」
吉田さんの宣言に、山本さんは吹き出しました。
「碁敵は憎さも憎し懐かししか。右に同じく。ああ、また打ちたくなってきた」
「その前に葬式だ」
「そうだな。急がないと、誰かしら主役が痺れを切らして待ってるぞ」
山本さんが明るい声で言うと、吉田さんは真面目な顔になって言いました。
「ここから先は、一緒には行けないんだ」
おや?と、山本さんは思いました。吉田さんの声が急に遠くなったような気がしたからです。でも、何も気づかなかったふりをして山本さんは言いました。「そうか。じゃあここで、いったんお別れだな」
歩き出して振り返ると、吉田さんが大きく手を振っていました。
「後でまた打とう」山本さんは碁を打つ真似をしながら言いました。
吉田さんが何か応えたようでしたが、声は風に飛ばされて聞こえませんでした。いたずらな風は薄桃色の花びらをいっせいに空に舞い上がらせました。と、傍らの木に貼ってあった一枚の紙がはらりと地面に落ちました。黒い縁どりの中に、墨で書かれた「山本家」。
山本さんがはっとしてもう一度振り返ると、吉田さんは眼鏡をはずして涙を拭っているところでした。山本さんは今、全部思い出しました。だから急いで前を向き、自分の葬式のそのまた先へと、どんどん足を早めて、しまいにはとうとう駆け出しました。
やがて山本さんの姿が見えなくなると、後には桜の花びらが点々と落ちていて、まるで足跡のように見えたということです。
(了)