第14回「小説でもどうぞ」選外佳作 ふりだし/安乃澤真平
第14回結果発表
課 題
忘却
※応募数217編
選外佳作
「ふりだし」
安乃澤真平
「ふりだし」
安乃澤真平
「おい、飯はまだか。」
最近、女房の物忘れがひどくて困っている。昔から夕飯は夜六時からと決めてそうしているのに、最近では一時間も二時間も過ぎることがよくある。冬から春になるにつれてだんだんと日が長くなってきているから調子が狂うのもわかるが、これはどうしたもんかと思う。
「いつになったら準備するんだ。」
きょうもこうして色々と言ってまくし立ててはいるが、女房はどうしても台所に立とうとしない。それどころか言葉を荒げている。
「いい加減にしてください!口を開けばまだかまだかって!もう何度目ですか!」
お互い八十にもなれば、足腰が動かないのはわかる。歳のせいか短気にもなるんだろう。でもだからと言ってああして座ったきり、こちらも見ずに語気を強められては参ってしまう。
「もういい!きょうは俺が作る。」
勢いに任せて言ってみたものの、料理なんてしたことがない。とりあえず冷蔵庫を開けてみたが、めぼしいものはなかった。しかし奥の方をよく見ると、コロッケやマカロニサラダが用意されていることに気が付いた。
「なんだ、作ってあるじゃないか。」
そう言いながら取り出して、食卓に並べようとリビングに持って行った。しかし女房がそれを奪ってまた冷蔵庫に入れてしまった。
「おい、何するんだ。」
「これはよし子さんの分です。」
「よし子って。よし子はもう何十年も前に結婚して、とっくに家を出てるじゃないか。」
「バカなこと言わないでください。ほら、もうすぐいらっしゃいますよ。」
私は尻もちをつくように椅子に腰かけ、頭を抱えてしまった。これはいわゆる認知症というやつなのだろうか。物忘れだけでなく、人が変わったようになることもあると聞いたことがある。さっき大声を出されたのも、もしかしたらそれが原因なのかもしれない。
「いらっしゃいますって、お前なぁ…。」
私は女房の顔をまじまじと見た。すると女房はため息をつきながら席を立ち、私のそばに来ると私の手を取って自分の肩に回した。
「さあ、そろそろお手洗いですか。」
その言葉に私はいよいよ苛立ちを隠せなかった。そしてそれは不安でもある。
「トイレぐらい自分で行ける!」
私はそう言ったのに、女房はトイレに行く私の後についてきた。そしてトイレのドアの向こうで、大丈夫ですかなどと言っている。
間違いない。夕飯の準備は遅れる。あれだけ可愛がっていた娘のことさえ忘れている。そしてこのトイレだ。認知症ともなれば、心配は今後の生活だ。いくら私が元気でも、老々介護にもいつかは限界がくるだろう。私だって気をつけないといけない。
私はトイレの用を済ませると、電話機の横に置いてある付箋の山を手に取った。これは自分のためだ。同時に女房のためでもある。私はきょうから、女房のすることやしたことを付箋に書き残そうと思った。そして日に何度も見返して、思い出すようにしよう。
しかし女房に見つかってガミガミ言われてはたまらない。どこか女房の見つからないところはないだろうか。そうしてしばらく考えて思いついたのは、机の裏だった。女房が私の部屋に入ることは滅多にない。入ってもわざわざ机の下を見ることもないだろう。私は自室に戻ると机の下にもぐった。ここならきっと大丈夫なんだ。そう信じていた。
しかし、安心できたのは束の間だった。机の裏を見上げると、私はその光景に言葉を失った。机の裏には大小問わず四十枚はくだらない数の付箋が貼られてあった。その一枚一枚にはなにやら言葉が書かれてあって、どれもが見覚えのある字で書かれてある。
「なんだこれは。」
私は端から順に眺めていった。トイレに行ったこと、風呂に入ったこと、ヘルパーのよし子さんのことなど色々と書いてある。
目を凝らして見ると、その端っこにはそれぞれ番号が書かれてあることに気がついた。その一番の付箋には夕飯と書かれてあって、他の付箋より何枚も多く貼られてあるから、だいぶ分厚くなっている。私はその文字を見て、そうだと思い出した。
私は手にしていた夕飯と書かれた付箋を一番のところに重ねて貼った。そして机の下から抜け出すと、リビングにいる女房のところへ向かった。
「おい、飯はまだか。」
最近、女房の物忘れがひどくて困っている。
(了)
最近、女房の物忘れがひどくて困っている。昔から夕飯は夜六時からと決めてそうしているのに、最近では一時間も二時間も過ぎることがよくある。冬から春になるにつれてだんだんと日が長くなってきているから調子が狂うのもわかるが、これはどうしたもんかと思う。
「いつになったら準備するんだ。」
きょうもこうして色々と言ってまくし立ててはいるが、女房はどうしても台所に立とうとしない。それどころか言葉を荒げている。
「いい加減にしてください!口を開けばまだかまだかって!もう何度目ですか!」
お互い八十にもなれば、足腰が動かないのはわかる。歳のせいか短気にもなるんだろう。でもだからと言ってああして座ったきり、こちらも見ずに語気を強められては参ってしまう。
「もういい!きょうは俺が作る。」
勢いに任せて言ってみたものの、料理なんてしたことがない。とりあえず冷蔵庫を開けてみたが、めぼしいものはなかった。しかし奥の方をよく見ると、コロッケやマカロニサラダが用意されていることに気が付いた。
「なんだ、作ってあるじゃないか。」
そう言いながら取り出して、食卓に並べようとリビングに持って行った。しかし女房がそれを奪ってまた冷蔵庫に入れてしまった。
「おい、何するんだ。」
「これはよし子さんの分です。」
「よし子って。よし子はもう何十年も前に結婚して、とっくに家を出てるじゃないか。」
「バカなこと言わないでください。ほら、もうすぐいらっしゃいますよ。」
私は尻もちをつくように椅子に腰かけ、頭を抱えてしまった。これはいわゆる認知症というやつなのだろうか。物忘れだけでなく、人が変わったようになることもあると聞いたことがある。さっき大声を出されたのも、もしかしたらそれが原因なのかもしれない。
「いらっしゃいますって、お前なぁ…。」
私は女房の顔をまじまじと見た。すると女房はため息をつきながら席を立ち、私のそばに来ると私の手を取って自分の肩に回した。
「さあ、そろそろお手洗いですか。」
その言葉に私はいよいよ苛立ちを隠せなかった。そしてそれは不安でもある。
「トイレぐらい自分で行ける!」
私はそう言ったのに、女房はトイレに行く私の後についてきた。そしてトイレのドアの向こうで、大丈夫ですかなどと言っている。
間違いない。夕飯の準備は遅れる。あれだけ可愛がっていた娘のことさえ忘れている。そしてこのトイレだ。認知症ともなれば、心配は今後の生活だ。いくら私が元気でも、老々介護にもいつかは限界がくるだろう。私だって気をつけないといけない。
私はトイレの用を済ませると、電話機の横に置いてある付箋の山を手に取った。これは自分のためだ。同時に女房のためでもある。私はきょうから、女房のすることやしたことを付箋に書き残そうと思った。そして日に何度も見返して、思い出すようにしよう。
しかし女房に見つかってガミガミ言われてはたまらない。どこか女房の見つからないところはないだろうか。そうしてしばらく考えて思いついたのは、机の裏だった。女房が私の部屋に入ることは滅多にない。入ってもわざわざ机の下を見ることもないだろう。私は自室に戻ると机の下にもぐった。ここならきっと大丈夫なんだ。そう信じていた。
しかし、安心できたのは束の間だった。机の裏を見上げると、私はその光景に言葉を失った。机の裏には大小問わず四十枚はくだらない数の付箋が貼られてあった。その一枚一枚にはなにやら言葉が書かれてあって、どれもが見覚えのある字で書かれてある。
「なんだこれは。」
私は端から順に眺めていった。トイレに行ったこと、風呂に入ったこと、ヘルパーのよし子さんのことなど色々と書いてある。
目を凝らして見ると、その端っこにはそれぞれ番号が書かれてあることに気がついた。その一番の付箋には夕飯と書かれてあって、他の付箋より何枚も多く貼られてあるから、だいぶ分厚くなっている。私はその文字を見て、そうだと思い出した。
私は手にしていた夕飯と書かれた付箋を一番のところに重ねて貼った。そして机の下から抜け出すと、リビングにいる女房のところへ向かった。
「おい、飯はまだか。」
最近、女房の物忘れがひどくて困っている。
(了)