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第14回「小説でもどうぞ」選外佳作 喪失/齊藤想

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第14回結果発表
課 題

忘却

※応募数217編
選外佳作
「喪失」
齊藤想
 最近、人の名前が覚えられない。テレビに出演しているタレントなんて、次の日には完全に忘れている。
 定年後の暇を持て余して、妻にそう話しかけると、妻は慰めるどころか、やんわりと追い打ちをかけてきた。
「貴方が忘れているのは、人の名前だけではありませんよ。例えば、昨日の晩御飯は何を食べたかのかしら?」
 自分は記憶を探った。トンカツを食べた気もするし、煮物だったような気もする。自分は恥ずかしそうに、後頭部をかき回した。
「いつも意識していないからなあ。これは参った」
 冗談でごまかそうとしたが、妻の目は冷たかった。
「意識していないのではなく、興味がないのです。それでは、昨日は何色のシャツを着ていましたか?」
 シャツの色は限られている。青か白だ。二分の一なら当たるだろう。
「これは分かる。青色だ」
「違います。ダボっとした黄色いトレーナーです」
「なんだそれ、ひっかけ問題か」
「覚えていないから、騙されるのです」
 妻はすまし顔で言う。ぐうの音も出ない。
「そもそも、貴方は生活のこと全てについて無関心でした。いつも仕事、仕事で、家庭のことは全部私に押し付けて」
「悪かった、いままで支えてきてくれたことは感謝している。だから定年後は少しでも家事を手伝ってなあ……」
「いまさら遅いです。四十年間にも及ぶ私の苦労を忘れているから、そんなのんきなことを口にできるのです。息子が肺炎になったとき、貴方は何をしてくれましたか? 娘が子宮内膜症になったとき、病院に駆けつけてくれましたか?」
 自分は黙るしかなかった。なにしろ、ふたつとも覚えていない。
「これ以上、貴方を責めても無駄ですわ。呆れて物も言えません。それでは、最後の質問にしましょう。私の名前は?」
「おいおい、いい加減にしろよ。長年寄り添ってきた妻の名前を忘れるわけがないじゃないか」
「いいから答えてください」
 妻の目が自分を射すくめる。背中に冷汗が流れる。まさか、そんなはずはない。
「恵里佳だ」
「残念。それは先ほどまで貴方が見ていたテレビに出ていたタレントの名前です」
 自分は完全に打ちひしがれた。これは病気だ。脳の異常だ。早く病院にいかなくては。
 じゃあこれで、と立ち上がろうとした妻を自分は引き留めた。
「ちょっと待ってくれ。それなら、お前はおれのことをどれだけ覚えているんだ。おれが務めてきた会社名と、役職名は」
「知りません。興味がありませんから」
「いままで住んできた社宅の名前は」
「覚える必要はありません。大事なのは、子供たちが通う学校と担任の先生の名前です」
「いままで給料を振り込んできた銀行と支店名は?」
「いまは使ってませんから」
 自分はぶぜんとした。
「なんだよ、全然覚えていないじゃないか」
「貴方と一緒にしないでください」
「じゃあ、おれからも最後の質問だ。お前に送った初めての誕生日プレゼントは」
 少しの間があった。
「小さなロケット型のペンダントです」
 自分は驚いた。四十年前のことなのに、覚えていたなんて。
「だって、嬉しかったですから。貴方がまだ貧乏だったのに、背伸びしちゃって」
 そうそう、あのころは貧乏で、給料日前はいつもパンとお米だけで過ごして、それでも毎日が楽しくて。 「そんな時代もあったなあ」
「細かいことは忘れてしまいましたけどね」
 ああ、そうだ。人間は忘れる生き物だ。夫婦でどんどん忘れて、老人ホームで世捨て人のように過ごすようになり、共通の思い出は四十年前のペンダントだけ。
 楽しいことも苦しいことも、全て時代の彼方に消え去った。だからこそ、心穏やかに過ごせるのかもしれない。
 老人ホームのスタッフが近づいてきた。笑顔で二人に声をかけきた。
「松下さんと青柳さんは仲良しですね。まるで本当の夫婦みたいに」
 ああ、と自分は答える。妻と思っていた女性も、首を縦に動かす。胸元のペンダントが揺れる。
 そうか、違ったか。けど、きっと明日にはすべて忘れて、同じ会話を繰り返す。
 それでいいのだ。それが幸せなのだから。
(了)