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第14回「小説でもどうぞ」佳作 それだけは忘れない/十六夜博士

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第14回結果発表
課 題

忘却

※応募数217編
「それだけは忘れない」十六夜博士
 タクシーで本社の表玄関に乗り付ける。「領収書はいかがいたしますか?」と訊く運転手に、「そんなものも、釣りもいらん」と万札を放り投げた。
 タクシーから降りると、大理石で囲われた大きな回転式の玄関を見上げた。それは、ベルボーイが立っていそうな豪華さで、一代で数兆円企業を立ち上げた自分のようだった。
 玄関を通り抜け、受付嬢に軽く手を上げると、奥にある応接室にズカズカと大股で進む。
 数兆円企業の社長ともなると、重要顧客との会合ばかりだ。最上階の三十階にある社長室よりも応接室の滞在時間は長い。俺は少し乱暴に応接室のドアを開けた。
 ドアの音に気付き、中にいる皆が俺を見た。部下たちが少し目を見張る。今日の不祥事を責められると怯えているのだろう。顔見知りの桜電気の社長の顔も強張るのが見てとれた。大型連携の大詰めで緊張しているようだ。
「遅れまして、申し訳ありません。全く弊社の社員どもときたら、バカばっかりで、ハイヤーの手配を忘れてましてね。何十年ぶりかでタクシーなんてものに乗ってきました」
 顧客に笑顔を浮かべて遅刻を詫びる。そして、返す刀で部下達を睨みつけた。
 空いたままのいつもの席に座り、応接室を軽く見渡した。部下達は一様に汗をハンカチで拭っている。ちょっと威圧しすぎたか。だが遅刻だけはダメだ。ビジネスマンの心得、第一箇条である。忘れてもらっては困るのだ。
「さあ、早速始めましょうか」
 気を取り直し、気持ちとは裏腹の明るい声を出した。いつまでも重い空気にするのもビジネスマンとしては失格である。
「サワ、◯×……さん」
 桜電気の社長の名前を呼ぼうとして語尾を濁した。応接室を軽く見渡すと、何が起こったのか分からず、皆、目を瞬かせている。
「お、ほん」とりあえず、咳払いをした。その間に記憶を探るが、サワダだったか、サワムラだったか。はたまたサワイだったか。もしかして、ヤマダのような気もする……。
「おい、君、ちょっと進めてくれ」
 隣の役員に、わざと咳払いをしつつ、進行を変われと促す。「はっ、はい」と返事をすると、「改めまして会議が遅れまして申し訳ありません」と、役員が会議をスタートした。
 歳をとって最も困るのが、顧客の名前を忘れてしまうことだ。ビジネスマンとして致命傷である。不思議なことに、どこの会社のどんな地位の人か、さらにはどこで会ったか、どんな仕事をしてきたかは鮮明に覚えている。だが名前だけが出てこない。悶々としながら、隣の役員の進行を見守っていると、役員がオオヤマ社長と呼びかけた。オオヤマだったか……。背筋に珍しく冷たいものが走った。ちなみに、隣の役員の名前も思い出せない。
 全く老いとは厄介だと思っていた刹那、応接室のドアが開き、「遅れまして申し訳ありません」と専務が頭を下げて入ってきた。
 全くどいつもこいつもビジネスマンとしての基本がなってない――。
「専務、君の席はないぞ。そこに立って聞いてなさい」
 出来るだけ微笑みを湛え、優しく言う俺を、専務は目を丸くしてみた。
「オオヤマさん、今日は遅刻ばかりで、本当に申し訳ありません。きつくお仕置きをしておきますので、バカどもの失態をお許しください。お前らも謝れ」
 全員で一度立ち上がり、頭を下げた。

 オオヤマ社長達を笑顔で見送った後、俺は眉根を寄せて、専務、役員に言った。
「今日、なんとか商談は前に進んだが、俺のおかげだぞ。遅刻は絶対ダメだ。忘れるな」
 はい、と消え入りそうな声で頭を下げる部下達。まあ、いい。ダラダラと部下を責めるのもビジネスマンとして失格である。これ以上ここにいると腹も立つので、「帰る」と言うと、ハイヤーの待機場所に向かった。今日、俺にも反省点はある。顧客の名前は事前にチェックしておくことにしよう――。

「イシバシ社長、災難でしたね」
 まだ社長のつもりでハイヤーのもとに向かう男の背を見つつ、役員が、会議で専務と呼ばれた男、イシバシに言った。
「相変わらずの人だったな。先方も戸惑っていたが、商談がまとまったんで良しとするか」
 イシバシは寂しそうに遠い目をした。
「権力だけは手放せない。いや、忘れないんだな、ボケちまった後も。きっと今でも社長のつもりなんだよ。でも――、今日はハイヤーでしっかり送ってやれよ」
「用意してあります」
「小さな会社の時、社会のためだと頑張った。俺たちが忘れちゃいけないのは、その初心だ」
 イシバシと役員はお互いの顔を見つめ、小さく頷きあった。
(了)