第13回「小説でもどうぞ」佳作 栗の棘/村上たいすけ
第13回結果発表
課 題
あの日
※応募数219編
「栗の棘」村上たいすけ
ばっぱは左の乳房がなかった。乳がんの手術で取ったらしい。僕は初め、乳房を取る、というのはどんなふうにやるんだろう、と思った。何か鋭利な刃物で肉を削ぐように切り落とすのか、それとも何か強い力で掴んでもぎ取ってしまうのか。ばっぱは会う度平気な顔で笑っていたから、痛みの想像がつかなかった。一緒に風呂に入るとき、僕はばっぱの胸をよく観察した。右はついているのに、左は何もない。乳首すらもなく、滑らかな肌が平坦に延びている。その中に一か所だけ線が引かれていて、醬油煎餅の表面みたいだった。
「ばっぱ、おっぱい痛い?」
湯船に浸かりながら聞くと、ばっぱは身体を擦る手を止める。
「いだいい。撫でてくれないとばっぱ、いだいなあ」
無い方の胸を押さえながら、全然痛くなさそうにばっぱは言った。撫でてみると、少しだけ膨らんでもったりとしていて、表面は柔らくてすべすべだった。
「ありがとねえ。もう平気だあ」
ばっぱはずっと笑っていた。やっぱり痛みはわからなかった。
ばっぱが一回だけ本気で痛がって泣いたのを、僕はばっぱが死んで十年以上経った今でも鮮明に覚えている。母さんとばっぱと三人で旅行した日だった。温泉街から少し外れたところに、左右を森で囲まれたコンクリートの道があった。秋のひんやりとした空気が辺りを包み、鼻から息を吸うと腐葉土の匂いがした。森は道のぎりぎりまで続いていて、コンクリートの地面にたくさんの栗を落としていた。一面に転がる栗を見て、小学生の僕は興奮していた。
「ばっぱ、見て」
僕はこっそり拾った栗を両手で包み込み、ばっぱの目の前に差し出した。手から飛び出す栗で、ばっぱを驚かせたかった。
「なにい、なんか入ってるのかあ?」
ばっぱは口角と眉を上げて僕の手を覗き込んだ。僕はこれ見よがしに手を開き、栗を覗き込むばっぱの顔に投げ上げた。
「いたっ! いたい!」
笑い転げる僕の目の前でばっぱが突然叫び、目を押さえてしゃがみこんだ。異変に気付いた母さんが青白い顔で駆け寄る。
「お母さん? 大丈夫? お母さん?」
今にも泣き出しそうな母さんを見て、ただ事ではないと思った。ばっぱは本気で痛がっていた。うずくまった身体から鼻を啜る音が聞こえた。だけど僕は笑った顔を元に戻すことができなかった。ばっぱが泣いていることが信じられなかった。乳房を切られても笑っていたんだから、こんなことで泣くはずがない、きっと今にも顔を上げて、いだいよおと笑顔で言うはずだと、心のどこかで思っていた。
「何すんの!」
母さんが今度は僕に駆け寄り、言った。いつも母さんは怒ると肩を揺さぶったり頭をはたいたりするのに、このときはただ、肩で息をしながら僕の前に立ちはだかっていた。僕は笑った顔を張り付けたまま、何も言えなかった。
「あんたなんかいらない」
母さんが震える声でぼそりと言った。言葉がひとりでに口からこぼれてしまったみたいな言い方だった。僕は頬を強張らせた。
「いらない! いらない! いらない!」
言葉を投げつけるように母さんは言った。いらないの数だけ、母さんは僕を蹴った。僕は泣いた。ばっぱも僕のそばでうずくまり、声を出さずに泣き続けていた。
八月に入り、お盆の時期がきた。日射しがアスファルトを溶かし、蝉の鳴き声で振動した空気は風となって自由に動き回れず凪いでいる。母さんが花立をゆすぐ間、僕はばっぱの墓を拭く。墓石は火傷しそうなくらい熱い。水をかけてやると、磨いた部分の表面が光った。僕はばっぱの滑らかな左胸を思い出す。
「仕事忙しいの?」
母さんが下を向いたまま言う。生え際の染め残した白髪が陽光を反射する。
「忙しいな。たぶん次年末」
淡々と返すとしゃがんで線香の塊に火をつけ、母さんに半分渡した。あの後、ばっぱにはきちんと謝って許してもらった。母さんも僕を許した。幸いばっぱは何の怪我もしなかった。それから何事もなかったように月日は流れ、ばっぱはがんが再発して亡くなり、僕は社会人になった。あの日のことは、今の僕の芯のような、根本的な何かになっている。ばっぱの痛がる姿、母さんが連呼した『いらない』という言葉。胸の奥のもう取り出せないどこかに刺さって、動かない。それはあのとき拾った栗の棘のようなかたちをしている。今ならばっぱの痛みがわかる気がする。
「時間できたら連絡するよ」
僕が言うと、母さんは安心したように笑った。
笑った顔がばっぱに似ていた。
(了)
「ばっぱ、おっぱい痛い?」
湯船に浸かりながら聞くと、ばっぱは身体を擦る手を止める。
「いだいい。撫でてくれないとばっぱ、いだいなあ」
無い方の胸を押さえながら、全然痛くなさそうにばっぱは言った。撫でてみると、少しだけ膨らんでもったりとしていて、表面は柔らくてすべすべだった。
「ありがとねえ。もう平気だあ」
ばっぱはずっと笑っていた。やっぱり痛みはわからなかった。
ばっぱが一回だけ本気で痛がって泣いたのを、僕はばっぱが死んで十年以上経った今でも鮮明に覚えている。母さんとばっぱと三人で旅行した日だった。温泉街から少し外れたところに、左右を森で囲まれたコンクリートの道があった。秋のひんやりとした空気が辺りを包み、鼻から息を吸うと腐葉土の匂いがした。森は道のぎりぎりまで続いていて、コンクリートの地面にたくさんの栗を落としていた。一面に転がる栗を見て、小学生の僕は興奮していた。
「ばっぱ、見て」
僕はこっそり拾った栗を両手で包み込み、ばっぱの目の前に差し出した。手から飛び出す栗で、ばっぱを驚かせたかった。
「なにい、なんか入ってるのかあ?」
ばっぱは口角と眉を上げて僕の手を覗き込んだ。僕はこれ見よがしに手を開き、栗を覗き込むばっぱの顔に投げ上げた。
「いたっ! いたい!」
笑い転げる僕の目の前でばっぱが突然叫び、目を押さえてしゃがみこんだ。異変に気付いた母さんが青白い顔で駆け寄る。
「お母さん? 大丈夫? お母さん?」
今にも泣き出しそうな母さんを見て、ただ事ではないと思った。ばっぱは本気で痛がっていた。うずくまった身体から鼻を啜る音が聞こえた。だけど僕は笑った顔を元に戻すことができなかった。ばっぱが泣いていることが信じられなかった。乳房を切られても笑っていたんだから、こんなことで泣くはずがない、きっと今にも顔を上げて、いだいよおと笑顔で言うはずだと、心のどこかで思っていた。
「何すんの!」
母さんが今度は僕に駆け寄り、言った。いつも母さんは怒ると肩を揺さぶったり頭をはたいたりするのに、このときはただ、肩で息をしながら僕の前に立ちはだかっていた。僕は笑った顔を張り付けたまま、何も言えなかった。
「あんたなんかいらない」
母さんが震える声でぼそりと言った。言葉がひとりでに口からこぼれてしまったみたいな言い方だった。僕は頬を強張らせた。
「いらない! いらない! いらない!」
言葉を投げつけるように母さんは言った。いらないの数だけ、母さんは僕を蹴った。僕は泣いた。ばっぱも僕のそばでうずくまり、声を出さずに泣き続けていた。
八月に入り、お盆の時期がきた。日射しがアスファルトを溶かし、蝉の鳴き声で振動した空気は風となって自由に動き回れず凪いでいる。母さんが花立をゆすぐ間、僕はばっぱの墓を拭く。墓石は火傷しそうなくらい熱い。水をかけてやると、磨いた部分の表面が光った。僕はばっぱの滑らかな左胸を思い出す。
「仕事忙しいの?」
母さんが下を向いたまま言う。生え際の染め残した白髪が陽光を反射する。
「忙しいな。たぶん次年末」
淡々と返すとしゃがんで線香の塊に火をつけ、母さんに半分渡した。あの後、ばっぱにはきちんと謝って許してもらった。母さんも僕を許した。幸いばっぱは何の怪我もしなかった。それから何事もなかったように月日は流れ、ばっぱはがんが再発して亡くなり、僕は社会人になった。あの日のことは、今の僕の芯のような、根本的な何かになっている。ばっぱの痛がる姿、母さんが連呼した『いらない』という言葉。胸の奥のもう取り出せないどこかに刺さって、動かない。それはあのとき拾った栗の棘のようなかたちをしている。今ならばっぱの痛みがわかる気がする。
「時間できたら連絡するよ」
僕が言うと、母さんは安心したように笑った。
笑った顔がばっぱに似ていた。
(了)