第13回「小説でもどうぞ」佳作 あの日の<ruby><rb>手巾</rb><rp>(</rp><rt>ハンケチ</rt><rp>)</rp></ruby>/紅帽子
第13回結果発表
課 題
あの日
※応募数219編
「あの日の手巾 」紅帽子
あの日のことは忘れられない。
一枚の真っ赤な手巾 が僕の手元にある。木綿の手巾だ。少し染みがある。1センチくらいの半径でいびつな円の薄い染み。
あの日、僕は学校から命じられた屋外作業に従事していた。その時、ガラスのかけらで指を切り、鋭い痛みが走ったかと思うとすぐに指の先から血がにじみ出た。血はみるみるうちに指を覆い掌にまで流れ、あとからあとからどんどん湧き出してきた。
おそらく僕は小さく叫んだろうし突拍子もない顔をしただろう。だが級友たちは自分の作業に夢中で、声をかけることはしなかった。もっとも僕の状況に気づいたとしても、見張っている大人たちの厳格な制裁を恐れて声をかけることができなかったに違いない。立場が逆だったなら僕もそうなのだから。
「あら、ひどい血が」
まるで青空の遠くから降ってくるかのような軽やかな女声が僕の耳に届いた。
彼女は僕の手を取り、指の付け根をしっかり握った。彼女の掌に僕の血がこぼれて、真夏の地面に染みこんでいった。しばらくそのままでいると、どうやら僕の指の出血がとまったのがわかった。
目と目が合った。
彼女は制服のポケットから手巾を取り出した。そして器用に僕の指に巻き付けた。これは木綿じゃないか、こんな貴重なものを。僕は首を振った。僕の血で大事な木綿の手巾を汚すわけにはいかない。
「ええんよ」
と彼女の透きとおった声が耳に届いた。彼女は目を伏せ少し照れたようにうつむいた。
遠くにいた大人たちの一人が僕たちの方に駆け足でやってきた。怒りをあらわに男は、この非常時にいちゃいちゃしやがって。すぐに離れろ、貴様はどこの学校の生徒だ。
僕は立ち上がり直立不動の姿勢で学校名氏名を大声で名乗った。赤ら顔の大人は、貴様の学校は女学生と乳繰り合うことを訓えとしておるのかあ。無茶なことを大人は言った。
「この人は悪うないんです。うちらの女学校の区域で建物疎開の瓦礫が多いんで、この人は自分の区域が終わったんでわざわざ手伝うてくださって、それで怪我をされたんです」
男はしばらく女生徒を睨 めつけたあと、僕に向かって、貴様たち中学生は領分を守れ、女学生に余計な色気づいたことなどするな、と罵ったあと、すぐに回れ右をして去って行った。僕は男の後ろ姿に敬礼をした。殴られないだけましだったのかもしれない。
それから一ヶ月が経った。
僕は木綿の手巾を眺めながらあの日のことを何度も思い返した。彼女に礼を言う前に立ち去った僕には手巾だけが残った。洗濯石けんを使って入念に洗ったのだがどうしても円く薄い血の染みが取れなかった。
真夏の建物疎開の作業はきつい。都市の空襲での延焼を防ぐため民家を壊す作業が僕たち中学生に課せられた。女学生は瓦礫の撤去がおもな仕事だった。
八月の第一月曜日、あの日、僕の足取りは軽かった。一ヶ月前の作業場と同じ場所だったのだ。ひょっとして彼女と一緒じゃないだろうか。僕は円く薄い染みの付いた木綿の手巾を制服のポケットに丁寧に入れた。
七本の川が三角州 を作ったこの町にはたくさんの橋が架かっている。町の中心には三つの中州をつなぐため、Tの字をした珍しい橋もある。僕の乗った電車がその橋を渡ると、美しいレンガ造りの建物が右手に現れた。三十年前にチェコ人の建築家が設計したというモダンな建物だ。楕円形のドームがチャーミングに載っかっている。
今朝はギラつく太陽が眩しい。僕たち中学生は整列した。幸いにも僕が立った場所は木陰だった。僕は大人たちに見つからないよう顔を動かさず、目だけで女学生の一団を探した。すぐにその中に彼女をみつけた。青空の下、輝くような彼女の顔を僕は木陰から見つめた。そして彼女のまっすぐな眼差しが僕の視線と交わろうとしたその時だった。
ピカッと光ったすぐその瞬間のドーンという激しい音とともに世界は真っ暗になった。
友人たちが周りでうめき声を上げている。中学生だけではなく大人たちも女学生たちも火膨れになった。僕は木陰が救ったのだろうか、ふらつく脚だがのろのろと歩けた。
熱線で灼かれた彼女の顔があった。僕は膝に彼女の頭を載せ、流れる血を止めるために手巾で押さえつけた。しかしすでに手の施しようがなかった。僕はいつまでも手巾で彼女の顔を拭った。他に何ができただろう。
あの日のことを忘れない。
木綿の手巾は僕の指から流れ出た血の部分だけが円く薄く残り、周りは彼女の真っ赤な血で染められている。
僕は九十歳を越え、彼女は十四歳のまま七十七年が過ぎた。
(了)
一枚の真っ赤な
あの日、僕は学校から命じられた屋外作業に従事していた。その時、ガラスのかけらで指を切り、鋭い痛みが走ったかと思うとすぐに指の先から血がにじみ出た。血はみるみるうちに指を覆い掌にまで流れ、あとからあとからどんどん湧き出してきた。
おそらく僕は小さく叫んだろうし突拍子もない顔をしただろう。だが級友たちは自分の作業に夢中で、声をかけることはしなかった。もっとも僕の状況に気づいたとしても、見張っている大人たちの厳格な制裁を恐れて声をかけることができなかったに違いない。立場が逆だったなら僕もそうなのだから。
「あら、ひどい血が」
まるで青空の遠くから降ってくるかのような軽やかな女声が僕の耳に届いた。
彼女は僕の手を取り、指の付け根をしっかり握った。彼女の掌に僕の血がこぼれて、真夏の地面に染みこんでいった。しばらくそのままでいると、どうやら僕の指の出血がとまったのがわかった。
目と目が合った。
彼女は制服のポケットから手巾を取り出した。そして器用に僕の指に巻き付けた。これは木綿じゃないか、こんな貴重なものを。僕は首を振った。僕の血で大事な木綿の手巾を汚すわけにはいかない。
「ええんよ」
と彼女の透きとおった声が耳に届いた。彼女は目を伏せ少し照れたようにうつむいた。
遠くにいた大人たちの一人が僕たちの方に駆け足でやってきた。怒りをあらわに男は、この非常時にいちゃいちゃしやがって。すぐに離れろ、貴様はどこの学校の生徒だ。
僕は立ち上がり直立不動の姿勢で学校名氏名を大声で名乗った。赤ら顔の大人は、貴様の学校は女学生と乳繰り合うことを訓えとしておるのかあ。無茶なことを大人は言った。
「この人は悪うないんです。うちらの女学校の区域で建物疎開の瓦礫が多いんで、この人は自分の区域が終わったんでわざわざ手伝うてくださって、それで怪我をされたんです」
男はしばらく女生徒を
それから一ヶ月が経った。
僕は木綿の手巾を眺めながらあの日のことを何度も思い返した。彼女に礼を言う前に立ち去った僕には手巾だけが残った。洗濯石けんを使って入念に洗ったのだがどうしても円く薄い血の染みが取れなかった。
真夏の建物疎開の作業はきつい。都市の空襲での延焼を防ぐため民家を壊す作業が僕たち中学生に課せられた。女学生は瓦礫の撤去がおもな仕事だった。
八月の第一月曜日、あの日、僕の足取りは軽かった。一ヶ月前の作業場と同じ場所だったのだ。ひょっとして彼女と一緒じゃないだろうか。僕は円く薄い染みの付いた木綿の手巾を制服のポケットに丁寧に入れた。
七本の川が
今朝はギラつく太陽が眩しい。僕たち中学生は整列した。幸いにも僕が立った場所は木陰だった。僕は大人たちに見つからないよう顔を動かさず、目だけで女学生の一団を探した。すぐにその中に彼女をみつけた。青空の下、輝くような彼女の顔を僕は木陰から見つめた。そして彼女のまっすぐな眼差しが僕の視線と交わろうとしたその時だった。
ピカッと光ったすぐその瞬間のドーンという激しい音とともに世界は真っ暗になった。
友人たちが周りでうめき声を上げている。中学生だけではなく大人たちも女学生たちも火膨れになった。僕は木陰が救ったのだろうか、ふらつく脚だがのろのろと歩けた。
熱線で灼かれた彼女の顔があった。僕は膝に彼女の頭を載せ、流れる血を止めるために手巾で押さえつけた。しかしすでに手の施しようがなかった。僕はいつまでも手巾で彼女の顔を拭った。他に何ができただろう。
あの日のことを忘れない。
木綿の手巾は僕の指から流れ出た血の部分だけが円く薄く残り、周りは彼女の真っ赤な血で染められている。
僕は九十歳を越え、彼女は十四歳のまま七十七年が過ぎた。
(了)