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第13回「小説でもどうぞ」佳作 今が、まさしく/うえお亞維

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第13回結果発表
課 題

あの日

※応募数219編
「今が、まさしく」うえお亞維
 四〇代女性です。月に一度、日曜日の午後、とあるカルチャーセンターの文章教室に通っています。六〇代の男性講師が課題を出し、生徒は一ヶ月で仕上げ、講師がそれを添削する、というのが教室の流れです。
 今回の課題は『あの日』です。
 四〇数年生きてきた私にとって『あの日』と言える日は、いくらでも出てきます。
 初めて自転車に乗れた日、七五三で初めてお化粧した日、祖父母がランドセルを買ってくれた日、などなど、思えば、“初めて”の体験が『あの日』のキーワードになるのかもしれません。
 そんなこんなで、文章教室の課題『あの日』に相応しそうな、下世話な言い方をすれば、大衆受けしそうな『あの日』を、思い返していますが、どれも、誰もが経験しているようなことばかりで、物珍しいものが思い浮かびません。
 教室仲間の大山さんに、どんなことを書く予定か聞いてみました。大山さんは六〇代の女性で、何となく馬が合い、教室終了後、一時間程度雑談をしてから帰る仲です。
「母が他界した日のことかねえ」
 聞くと、大山さんは小学三年生の時に、お母様を亡くされているそうで、五〇年以上経った今でも、お母様が息を引き取った『あの日』の病室の様子を、はっきりと憶えているとのことでした。
 幸い、私は両親ともに健在で、大山さんのような、親と死別する『あの日』は経験しておらず、想像すらできません。
 大山さんは、どんな『あの日』を書くのか。私は、次回の文章教室が待ち遠しくなってきました。
 そんなことよりも、私自身の『あの日』をどうしようか、まだ何も思い浮かびません。
 帰宅してから、私は同居している母に、尋ねてみました。
「お母さんにとって『あの日っていつ?』って聞かれたら何の日?」
 母は間髪入れずに答えます。
「そりゃあ、あんたが生まれた日のことに決まってるわ」
 独りっ子の私を生んだ日が、母にとっては『あの日』なのだそうです。
 出産経験のない私にとって、初産の『あの日』は、まったく想像の域を超えており、恐らくこの先も、経験することはないでしょう。
「あんたが生まれた日はねえ……」
 母は、ここぞとばかりに話し始めますが、私はまったく憶えていませんし、他人事という感じにしかなれませんでした。
 ただ、話をしている母の表情には、私を生んでよかった、という満足感が溢れ出ていて、私はその表情を見ただけで、何だかとても、満たされた気持ちになりました。
「何だ、何の話だ?」
 外出していた父が帰宅し、女同士の話の腰を折ります。
「いやね、桜子が急に『あの日って言われたらいつ?』なんて聞いてくるから、『あんたが生まれた日だよ』って話してたのよ」
 男性である父の『あの日』に、あまり興味は湧かず、尋ねるつもりはなかったのですが、父は勝手に話し始めました。
「あの日は仕事で、職場に『生まれましたよ。女の子ですよ』って電話が掛かって来て、慌てて病院に向かったんだよ。何せ初めてのことだから、生まれたって言われても、実感なんか湧いてきやしなかった。本当は、名前を『光』にするつもりだったんだけど、病院の庭の桜が満開で、あまりにも綺麗だったんで、急遽『桜子』にしたんだよな」
 父は母の顔を見ながら、そう言いました。
「えっ? そうなの? 私本当は『光』って名前だったの?」
「あら? 言わなかったかしら? そうなのよ。あんた、桜が咲いてなかったら、『光』だったのよ」
 四〇数年生きてきた私の知らない『あの日』があったのです。
「でも、何でわざわざ『子』を付けて、『桜子』にしたの? 『桜』の方が普通って感じじゃない?」
「それは、お父さんがね……ふふふ」
 母は思い出し笑いをしながら、続けます。
「『俺たちの初めての子どもなんだから、桜に子を付けて、桜子にしよう』って」
「えっ? そうなの? お父さん、そんなこと言ったの?」
 髪の毛が薄くなり、お腹が出っ張った父の方を見ながら尋ねると、
「言ったかな? もう四〇何年も前のことだから忘れた」
 父はそう言い終えるか終えないうちに、服を着替えに二階に上がっていきました。

 これは、一〇年前の私の『あの日』の話です。父も母も大山さんも、今はもういません。
(了)