W選考委員版「小説でもどうぞ」第2回 選外佳作 指切りげんまん/中井マサコ
選外佳作
「指切りげんまん」
中井マサコ
「指切りげんまん」
中井マサコ
あの時の仲間が、僕一人になったことを風の便りで知った。みんな死に急ぐように逝ってしまった。
六十年前の夏休み明け頃のことだ。
当時、小学三年生だった僕は近所のガキ大将を拠り所に、村の裏山で探検ごっこをして遊ぶのが日課だった。
その日、僕は学校から帰ると玄関にランドセルを放り込んで裏山の入口へ向かった。
途中で僕の随分前を「塩屋」のお嫁さんが歩いているのを見かけた。いつものピンクのブラウスを着て黒髪を後ろで束ねていた。
「塩屋」は、県道沿いの、お米と塩を売っている臼井商店のことで、お嫁さんは、最近お嫁にきたばかりの、すごい美人だった。僕は母の買い物について行って、初めてお嫁さんに会った時、その美しさに驚いた。化粧をしていないのに顔は透き通るように白く輝いていた。薄いピンク色のブラウスがまぶしくて僕は思わず目をそらせた。
裏山の入口に着くと、誰もいなかった。僕は、木に寄りかかって青空を見ているうち、算数の宿題があることを思い出して、今日はいつもより早く帰ろうと、ぼんやり考えていた。
ガキ大将の圭介君と、弟のとし君、とし君の同級生かず君と、よし君と、れい君が、次々に集まって、その日は六人だった。
当時の裏山は、まだ村有地で、戦争中に掘った防空壕が幾つか残っていた。奥深くまで続く穴や、入口近くで潰れている穴もあって、度胸試しには、もってこいだった。ガキ大将の圭介君は、落盤が起こらない穴を選んで僕たちを試した。地面が赤土の防空壕は、歩くと足元から湿気が上ってきた。思わず膝を曲げてしまうほど天井が低かった。今にも崩れそうな気がしたし、蛇が出そうだったから頭の中は恐怖で、はちきれそうになった。
それから、身長の二倍くらいの高さの崖を幾つも飛び降りる、崖の飛び降りっこをした。数度(すうど)、清水の舞台から飛び降りる夢を見て冷や汗をかいたことがあるけど、その時のトラウマだろうかと思ったりする。
「蝮に注意」の立て札を横に見て、湿地帯で食虫植物を観察した。僕は今も食虫植物を見るのが好きだ。小さい虫を捕まえて、両手を広げたような形をした葉っぱの中へ入れてやると、ゆっくりと閉じていく。どう見ても可憐そうな植物が、虫を食べるのだからゾクッとする。八丁トンボが、まだ飛んでいた。
隣に位置する天池へ向かった。この池はすり鉢のように底に向かって深くなる危険な池だったので、どこの親も池には近づかないように子供に注意していた。
緑に囲まれた天池のほとりは薄暗かった。数匹の蛇が、濃い緑色の水面を、ゆらゆら左右に揺れながら微かな波紋を立てて泳いでいた。
「気持ちわる~」と、僕たちは顔を見合わせながら口々に言い合った。
「あれは何だ」と圭介君が池の真ん中あたりを指して言った。僕らが一斉にそちらを見ると、ピンク色の何かが空気を孕んで浮いているのが見えた。僕は咄嗟に塩屋のお嫁さんのブラウスを思い出した。
突然
「グアァ~、あああ~」と動物のような大声が足元に響いた。僕らは、びっくりして一塊になって飛びのいて下を見た。
若い男が叢に這いつくばっていた。
「事故なんだよ~。すみ子さんは、蛇にかまれて池に落ちたんだ~」と、男は泣きながら僕たちに粘った口を広げて叫んだ。
「頼む~、誰にも言わないでくれ~。話をしただけなんだ~。知れたら俺も死ぬ~」と、すがるような目をして僕たちに叫び続けた。僕は、塩屋のお嫁さんの名前が、すみ子さんということを、そのとき知った。僕たちは驚いて、どうしていいか分からず、棒立ちになったまますくんでいた。
「池であったことは誰にも言わんとこ。あの男の人が死んだらいかんで」と圭介君は言った。僕は、あの男の、すがるような目が頭から離れなかった。あの男の人が死んだら僕たちの責任になると思って賛成した。みんなもそうだったと思う。裏山から下りたら、夕焼けで空の果てまで真っ赤だった。みんなで「指切りげんまん」で約束をした。
僕は、その夜、宿題をせずに寝てしまった。
次の日、学校から家に帰ると、
「塩屋さんのお嫁さんが行方不明だって。気の毒にねえ。心配だねえ」と母が言った。僕は急に心臓がドキドキしたけど黙っていた。
それから三日ほどたってから、お嫁さんが天池で入水自殺していたという話が耳に入った。指切りしたから、僕たちは誰にも何も言わなかった。僕は、二十四歳で故郷を離れて仲間とは、それきりになった。あの池の男が、どこの誰かは知らないままだ。あの男は無事に傘寿を迎えられただろうか。
(了)
六十年前の夏休み明け頃のことだ。
当時、小学三年生だった僕は近所のガキ大将を拠り所に、村の裏山で探検ごっこをして遊ぶのが日課だった。
その日、僕は学校から帰ると玄関にランドセルを放り込んで裏山の入口へ向かった。
途中で僕の随分前を「塩屋」のお嫁さんが歩いているのを見かけた。いつものピンクのブラウスを着て黒髪を後ろで束ねていた。
「塩屋」は、県道沿いの、お米と塩を売っている臼井商店のことで、お嫁さんは、最近お嫁にきたばかりの、すごい美人だった。僕は母の買い物について行って、初めてお嫁さんに会った時、その美しさに驚いた。化粧をしていないのに顔は透き通るように白く輝いていた。薄いピンク色のブラウスがまぶしくて僕は思わず目をそらせた。
裏山の入口に着くと、誰もいなかった。僕は、木に寄りかかって青空を見ているうち、算数の宿題があることを思い出して、今日はいつもより早く帰ろうと、ぼんやり考えていた。
ガキ大将の圭介君と、弟のとし君、とし君の同級生かず君と、よし君と、れい君が、次々に集まって、その日は六人だった。
当時の裏山は、まだ村有地で、戦争中に掘った防空壕が幾つか残っていた。奥深くまで続く穴や、入口近くで潰れている穴もあって、度胸試しには、もってこいだった。ガキ大将の圭介君は、落盤が起こらない穴を選んで僕たちを試した。地面が赤土の防空壕は、歩くと足元から湿気が上ってきた。思わず膝を曲げてしまうほど天井が低かった。今にも崩れそうな気がしたし、蛇が出そうだったから頭の中は恐怖で、はちきれそうになった。
それから、身長の二倍くらいの高さの崖を幾つも飛び降りる、崖の飛び降りっこをした。数度(すうど)、清水の舞台から飛び降りる夢を見て冷や汗をかいたことがあるけど、その時のトラウマだろうかと思ったりする。
「蝮に注意」の立て札を横に見て、湿地帯で食虫植物を観察した。僕は今も食虫植物を見るのが好きだ。小さい虫を捕まえて、両手を広げたような形をした葉っぱの中へ入れてやると、ゆっくりと閉じていく。どう見ても可憐そうな植物が、虫を食べるのだからゾクッとする。八丁トンボが、まだ飛んでいた。
隣に位置する天池へ向かった。この池はすり鉢のように底に向かって深くなる危険な池だったので、どこの親も池には近づかないように子供に注意していた。
緑に囲まれた天池のほとりは薄暗かった。数匹の蛇が、濃い緑色の水面を、ゆらゆら左右に揺れながら微かな波紋を立てて泳いでいた。
「気持ちわる~」と、僕たちは顔を見合わせながら口々に言い合った。
「あれは何だ」と圭介君が池の真ん中あたりを指して言った。僕らが一斉にそちらを見ると、ピンク色の何かが空気を孕んで浮いているのが見えた。僕は咄嗟に塩屋のお嫁さんのブラウスを思い出した。
突然
「グアァ~、あああ~」と動物のような大声が足元に響いた。僕らは、びっくりして一塊になって飛びのいて下を見た。
若い男が叢に這いつくばっていた。
「事故なんだよ~。すみ子さんは、蛇にかまれて池に落ちたんだ~」と、男は泣きながら僕たちに粘った口を広げて叫んだ。
「頼む~、誰にも言わないでくれ~。話をしただけなんだ~。知れたら俺も死ぬ~」と、すがるような目をして僕たちに叫び続けた。僕は、塩屋のお嫁さんの名前が、すみ子さんということを、そのとき知った。僕たちは驚いて、どうしていいか分からず、棒立ちになったまますくんでいた。
「池であったことは誰にも言わんとこ。あの男の人が死んだらいかんで」と圭介君は言った。僕は、あの男の、すがるような目が頭から離れなかった。あの男の人が死んだら僕たちの責任になると思って賛成した。みんなもそうだったと思う。裏山から下りたら、夕焼けで空の果てまで真っ赤だった。みんなで「指切りげんまん」で約束をした。
僕は、その夜、宿題をせずに寝てしまった。
次の日、学校から家に帰ると、
「塩屋さんのお嫁さんが行方不明だって。気の毒にねえ。心配だねえ」と母が言った。僕は急に心臓がドキドキしたけど黙っていた。
それから三日ほどたってから、お嫁さんが天池で入水自殺していたという話が耳に入った。指切りしたから、僕たちは誰にも何も言わなかった。僕は、二十四歳で故郷を離れて仲間とは、それきりになった。あの池の男が、どこの誰かは知らないままだ。あの男は無事に傘寿を迎えられただろうか。
(了)