W選考委員版「小説でもどうぞ」第2回 佳作 押し入れ/稲尾れい
「押し入れ」稲尾れい
息子の健は幼い頃、嫌なことがあるといつも子供部屋の押し入れの上段にこもっていた。半開きのふすまの前には踏み台が置いたままになっていたので、探すまでもなかった。
子供の手でふすまを内側からちゃんと閉めるのは難しいだろうし、中にこもるにしても真っ暗闇では怖いだろう。
「なあに、健はまたドラちゃん状態になってたの?」
私は息子をあの有名な猫型ロボットになぞらえ、笑いながらふすまを開け放った。押し入れの片隅で体を丸めていた健は泣きはらした目を細め、「お母さん、まぶしい。目が痛いよ」と言いながらにじり出てきた。そして、胸に抱えていた嫌なことを懸命に訴えながらぎゅっと私にしがみついてくるのだった。
小学校に上がった後も健は愛用の押し入れがある部屋を使い続け、相変わらず時々は中にこもったりしていたようだ。けれど、学年が上がるにつれ私に泣きついてくることはなくなっていった。息子の成長に一抹の淋しさを覚えつつ、私は部屋の扉とふすまに隔てられた向こう側から見守ることにした。
健が中学生になると、わが家に良く遊びに来るようになった子がいた。守矢駿太君という名前のその子は、他の友達と共に集団で訪れることもあったけれど、大抵は一人だった。寡黙ながらいつも楽しそうに過ごし、私に対してはさり気ない礼儀正しさも見せる、感じの良い子だった。下の名前まで覚えていたのは、健が他の友達を名字で呼ぶ中、守矢君のことだけは「シュン」と呼んでいたからだ。
その守矢君に彼女が出来たらしい、と聞かされたのは健が中二の二学期、期末テスト期間が終わった日の夜のことだった。相手はシュンが通う塾の奴で、おれは面識ないんだけど。居間でスマホをいじりながら健は言った。
年頃の息子に珍しく繊細な話を振られたことが嬉しく、されどここでうかつな返答(守矢君良い子だもんねとか、先を越されたねとか)はすまい、と私は瞬時に考えを巡らせた。
「そっか。じゃあ、しばらくはうちにもあまり遊びに来ないのかな。ちょっと淋しいね」
「まあ、そんなもんじゃない? 知らんけど」
健の口調はごく軽く、話はそこで終わった。少し名残惜しかったけれど私も深追いはせず、先にお風呂に入ってくると告げて居間を出た。
三十分程経って浴室を出た時、うめくような声が耳をかすめた。息をつめ、耳を澄ます。健の部屋の方から、鼻をすすり上げる音と共に微かな声が聞こえた。「……シュン……」
私は静かにパジャマを身に着けると深呼吸し、わざと足音を立てながら健の部屋に向かった。閉じた扉の前で声を張る。
「お風呂空いたよ! さめないうちに入りなー」
ぱたぱたと歩き去る私の足音に混じって、押し入れのふすまがそろりと開く音が聞こえた。続いて、押し入れの上段からズン、と飛び降りる音。今はもう、自力で開けて踏み台も使わずに出られるんだな、と妙なところがしみじみと胸に沁みた。その日以来、守矢君がわが家に遊びに来ることはなくなった。
大学卒業後、健は東京での就職を機にわが家を出た。数年間の一人暮らしの後、家賃を節約する為にルームシェアを始めたと電話で報告を受けたのが今から三年前、ちょうど巷で新型コロナが流行し始めた頃のことだ。それ以来、一度も帰ってきていない。
『今年の夏は、そろそろ帰ってきなよ』
健のスマホにメッセージを送るとすぐに既読になり、程なくして返信があった。
『あいつも実家にはずっと帰ってないし、おれ一人だけ帰るのは、ちょっと』
あいつ、とは恐らく健の同居人のことだ。私は以前からずっと考えていたことをメッセージ画面に打ち込み、えいやっ、とばかりに送信した。夫にはまだちゃんと相談していないが、まあ、いざとなれば何とかなるだろう。
『良かったら、二人で一緒に帰ってきたら?』
今度は、既読になってから返信まで随分間があった。『ちょっと、相談してみる』という一文がようやく返ってきた更に数時間後、健から電話が掛かってきた。
「来月、二人でそっちに行こうと思う。そ、それで……」
続く言葉を待ってしばらく黙っていたけれど、健は結局「……それじゃ、また連絡する」と言って通話を終わらせようとする。ねえ健、と私は電話口の息子に呼び掛けた。
「待ってるよ。健も、それから守矢君も」
中学卒業後、別々の高校に進んだ彼らが再会し同居するに至った詳細な経緯を私は知らない。ただ健から報告を受けた時、今もそのままにしてある部屋の押し入れが思い浮かんだ。健が自分の手で開け放ち、外に飛び出す気になった時、私はそれを見守りたいと思う。
「シュンに伝えとく」電話口で長く息を吐くと、少し震えた声で言って健は電話を切った。
(了)
子供の手でふすまを内側からちゃんと閉めるのは難しいだろうし、中にこもるにしても真っ暗闇では怖いだろう。
「なあに、健はまたドラちゃん状態になってたの?」
私は息子をあの有名な猫型ロボットになぞらえ、笑いながらふすまを開け放った。押し入れの片隅で体を丸めていた健は泣きはらした目を細め、「お母さん、まぶしい。目が痛いよ」と言いながらにじり出てきた。そして、胸に抱えていた嫌なことを懸命に訴えながらぎゅっと私にしがみついてくるのだった。
小学校に上がった後も健は愛用の押し入れがある部屋を使い続け、相変わらず時々は中にこもったりしていたようだ。けれど、学年が上がるにつれ私に泣きついてくることはなくなっていった。息子の成長に一抹の淋しさを覚えつつ、私は部屋の扉とふすまに隔てられた向こう側から見守ることにした。
健が中学生になると、わが家に良く遊びに来るようになった子がいた。守矢駿太君という名前のその子は、他の友達と共に集団で訪れることもあったけれど、大抵は一人だった。寡黙ながらいつも楽しそうに過ごし、私に対してはさり気ない礼儀正しさも見せる、感じの良い子だった。下の名前まで覚えていたのは、健が他の友達を名字で呼ぶ中、守矢君のことだけは「シュン」と呼んでいたからだ。
その守矢君に彼女が出来たらしい、と聞かされたのは健が中二の二学期、期末テスト期間が終わった日の夜のことだった。相手はシュンが通う塾の奴で、おれは面識ないんだけど。居間でスマホをいじりながら健は言った。
年頃の息子に珍しく繊細な話を振られたことが嬉しく、されどここでうかつな返答(守矢君良い子だもんねとか、先を越されたねとか)はすまい、と私は瞬時に考えを巡らせた。
「そっか。じゃあ、しばらくはうちにもあまり遊びに来ないのかな。ちょっと淋しいね」
「まあ、そんなもんじゃない? 知らんけど」
健の口調はごく軽く、話はそこで終わった。少し名残惜しかったけれど私も深追いはせず、先にお風呂に入ってくると告げて居間を出た。
三十分程経って浴室を出た時、うめくような声が耳をかすめた。息をつめ、耳を澄ます。健の部屋の方から、鼻をすすり上げる音と共に微かな声が聞こえた。「……シュン……」
私は静かにパジャマを身に着けると深呼吸し、わざと足音を立てながら健の部屋に向かった。閉じた扉の前で声を張る。
「お風呂空いたよ! さめないうちに入りなー」
ぱたぱたと歩き去る私の足音に混じって、押し入れのふすまがそろりと開く音が聞こえた。続いて、押し入れの上段からズン、と飛び降りる音。今はもう、自力で開けて踏み台も使わずに出られるんだな、と妙なところがしみじみと胸に沁みた。その日以来、守矢君がわが家に遊びに来ることはなくなった。
大学卒業後、健は東京での就職を機にわが家を出た。数年間の一人暮らしの後、家賃を節約する為にルームシェアを始めたと電話で報告を受けたのが今から三年前、ちょうど巷で新型コロナが流行し始めた頃のことだ。それ以来、一度も帰ってきていない。
『今年の夏は、そろそろ帰ってきなよ』
健のスマホにメッセージを送るとすぐに既読になり、程なくして返信があった。
『あいつも実家にはずっと帰ってないし、おれ一人だけ帰るのは、ちょっと』
あいつ、とは恐らく健の同居人のことだ。私は以前からずっと考えていたことをメッセージ画面に打ち込み、えいやっ、とばかりに送信した。夫にはまだちゃんと相談していないが、まあ、いざとなれば何とかなるだろう。
『良かったら、二人で一緒に帰ってきたら?』
今度は、既読になってから返信まで随分間があった。『ちょっと、相談してみる』という一文がようやく返ってきた更に数時間後、健から電話が掛かってきた。
「来月、二人でそっちに行こうと思う。そ、それで……」
続く言葉を待ってしばらく黙っていたけれど、健は結局「……それじゃ、また連絡する」と言って通話を終わらせようとする。ねえ健、と私は電話口の息子に呼び掛けた。
「待ってるよ。健も、それから守矢君も」
中学卒業後、別々の高校に進んだ彼らが再会し同居するに至った詳細な経緯を私は知らない。ただ健から報告を受けた時、今もそのままにしてある部屋の押し入れが思い浮かんだ。健が自分の手で開け放ち、外に飛び出す気になった時、私はそれを見守りたいと思う。
「シュンに伝えとく」電話口で長く息を吐くと、少し震えた声で言って健は電話を切った。
(了)