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W選考委員版「小説でもどうぞ」第1回 佳作 愛のツッコミ/見坂卓郎

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小説でもどうぞ
「愛のツッコミ」見坂卓郎
 義母と初めて会った日。私は二時間に一本しかこないローカル線とバスを乗り継ぎ、大阪から五時間ほどかけて夫の実家へとたどり着いた。初夏にしては涼しい日だったのに、山間にある集落に足を踏み入れるころにはすっかり汗だくになっていた。
「ようきたね」
 義母はまっ黒に日焼けした顔でニコニコと出迎えてくれた。小柄な義母はまるまると太っていて、そのせいか肌には皺がなくつやつやしている。まるで大きな赤ちゃんみたいだ。還暦が近いとはとても思えない。
 玄関の先に土間があり、そこから板の間をとおって和室に入る。ひと足先に着いていた夫が畳の上でいびきをかいていた。やはり実家は落ち着くのだろう。エアコンがないのに家のなかを涼しい風が流れていく。日本家屋は夏を基準にしているという話を思い出す。
 義母の用意してくれた麦茶を飲んでいると、畑仕事を終えた義父が姿を見せた。まるまるした義母とは対照的に、ほっそりと痩せていてどこかゴボウを思わせる。首から手ぬぐいを下げた姿は、風呂上がりの夫にそっくりだった。どうやら夫は父親似らしい。
 夫をゆすり起こし、私たちは正座し直して入籍とお腹のなかにいる子どもについて報告した。事前に電話で伝えている話なのに、二人は初めて聞いたように喜んでくれた。
「めでたいことが重なったねえ」
「ほんまほんま」
 二人の笑顔を見ていると、遠くからはるばるやってきたことが報われた気がした。周囲を自然にかこまれたこの環境だからこそ、夫はのびのびと育つことができたのだろう。
「まあ、順番をちいっと間違うたかもしれんけどな」
 義父がぽつりとそう言い、だれも反応しないので自分でハハハと笑った。私は何のことか分からず、しばらくして妊娠のことを言っているのだと気づいた。とたんに胸がチクリと痛む。私はいわゆる「できちゃった婚」というものに負い目を感じていたのだ。
 そのとき、義母がドンとちゃぶ台を叩いて立ち上がった。
「あんたは、そうやってつまらんことを言うてから!」
 義母は突進するようにして義父の身体を突き飛ばした。大砲みたいに重く鈍い音がした。義母の体格がいいのは脂肪だけでなく、骨そのものが太いせいかもしれない。痩せている義父はまるで風で飛ばされる洗濯物のようにぴゅうとあっけなく飛んでいった。
 あまりに予想外の光景だったせいか、私の視界は急にスローモーションになった。おそらく死のまぎわに走馬灯を見るのと同じ現象だろう。時間の流れが遅くなり、板の間にある囲炉裏の魚のかたちをした自在鉤がくっきりと見え、あれはどうして魚なのだろうと考える余裕まであった。
 飛ばされた義父の身体は板の間をすべり、そのまま土間にドスンと落下した。後頭部から落ちたようだ。死んだ、と思った。
 しんと静まり返ったあと、土だらけになった義父がのっそりと起き上がった。
「すまんすまん」
 義父は照れたような表情で服についた土をはらうと、何事もなかったみたいに和室へと戻ってきて麦茶をすすった。
 夫もまた、何事もなかったかのように和菓子を頬張っている。いやいやいや。おかしいでしょう。三人があまりに平然としているので、おかしいと思う私こそがおかしいのではないかという気になってきた。味方になってくれるはずの夫は完全に向こう側の人間だ。
 すっかりアウェーの気持ちになった私は義父母の様子をつぶさに観察した。彼らはニコニコしながら軽口を言い合い、ときに小突き合っている。はたから見れば小さな喧嘩みたいなのだが、実際のところ二人は仲良しだ。これはお互いを信頼し合っているからこそ成り立つ愛のツッコミの応酬なのだ。
 そこまで気づくと、私自身が試されているような気持ちになってきた。私はたしかに夫に対してどこか遠慮する気持ちがあった。お互いに言いたいことを言い合うことを避けてきた。土間にドスンと突き落とされたのはそんな私の弱い心ではなかったか。
 あれから長女が生まれ、ばたばたと忙しい日々をこなしてきた。育児本を読んでも何が正解だかよく分からなくて、そんなときあの日の夫婦漫才みたいな義父母の姿を思い出しては心の拠りどころにしてきた。
 そんなある日、風呂上がりの夫が首にタオルをかけたまま言った。
「おふくろに似てきたな」
 私が思わず振り返ると、彼は自分でハハハと笑った。そっちこそ――。とたんにくすぐったい気持ちがして、私は夫の背中にそっと近づくと、そのままソファの向こう側に思いっきり突き飛ばした。
(了)