W選考委員版「小説でもどうぞ」第1回 最優秀賞 0.2パーセントの想い出/相葉ライカ
「0.2パーセントの想い出」相葉ライカ
父と母が出会ったのはロシアの中南部、西シベリアのアルタイ地方だった。今の地図で見ると、ロシアのほぼ真ん中の、いちばん南側。カザフスタンとの国境のすぐ近くだ。アルタイ地方の中心都市バウナウルから南に約百五十キロ。山の中には有名な洞窟があり、近くにはアヌイ川が流れている。
フィールドワークと称して、父は洞窟の周辺を単独で散策していたところだった。この地域には古生代に形成された古い洞窟が三百もある。考古学的資料の宝庫だが、当時はまだそれほど有名ではなく、一般にも開放されていた。季節は夏。日差しはまぶしく、緑は濃く鮮やかで、どこまでも続いている。タイガの林を抜けて、父は川べりに出た。
水辺には女が立っていた。どうやら収穫した木の実か何かを洗っているらしい。この辺りには少数民族が暮らすエリアが点在しているが、目の前の人物に見覚えはなかった。父は緊張した。未知の部族との最初の出会いは危険だ。命を落とすことも珍しくない。だがしかし、父が緊張したのは身の危険を感じたからではなかった。その人がとても美しかったからだ。
母の肌の色は淡い褐色で、豊かな栗色の髪を後ろで束ねていた。瞳の色は緑がかったこげ茶色。父が今まで出会った誰とも似ていなかった。どうやって声をかけるべきか悩みながら様子を伺っていると、ほどなく母の方が父に気がついた。母は悲鳴を押し殺して岩陰に隠れた。父は心底申し訳なく思ったが、どうすることもできない。自分は危険ではないということを伝えるために、その場にじっとしていた。
首筋に太陽が直撃し、肌がヒリヒリする。額に汗が浮かぶ。立っているのに疲れて、父はできるだけ静かにその場に座った。岩の向こうで何かが動く気配がした。こちらの様子を伺っているのが伝わってくる。こうなったら、どちらが忍耐強いか競うしかない。父はこのまま立ち去りたくなかった。どうにかして話をしたかった。
幸い、それほど長く待つ必要はなかった。父の身体に蚊が集まり始めたからだ。シベリアの虫にはかなり慣れていたものの、さすがにじっとしてはいられない。父が蚊と格闘を始めると、母が岩陰から姿を現した。ためらいながらも、ゆっくりと近づいて来る。父は母を警戒させないように、蚊を払うのを一時中断した。父の意図が伝わり、母は父のすぐ近くまで歩み寄った。両者はしばし見つめあい、お互いに危険がないことを無言で確認し合った。
母は草の汁を絞って、父の肌に塗ってくれた。柑橘類とミントを混ぜたような爽やかな香りがした。母のブレスレットがチャリチャリと音を立てた。空には半月が昇り始めていた。
意思の疎通がはかれるほど会話が成立するか、心配する必要はなかった。父は少数民族の言葉を研究しており、その地域全般で使われる共通の語彙にかなり詳しかった。母はシベリア平原西部で話されている言葉をよく知っていた。「西からやって来る人は年々増えているから」と母は西の言葉で言った。
母の一族はそこから一日半ほど上流に歩いたところに住んでいた。夏の終わりの祭りに向けて壁画を描く予定なので、母は顔料用の鉱石を採集に来ていたところだった。ついでに洞窟の壁画を参考に見て回っていた。
西シベリア平原とアルタイ山脈が出会うところで出会った二人は、それから五日間を一緒に過ごした。母は周辺を知りつくしていて、エメラルドグリーンの川やミネラルの温泉に父を案内した。山菜の美味しい食べ方や、甘いベリーの選び方も教えてくれた。塩湖で泳いでから、泥のパックを塗りあって、天然の薬湯につかる。タイガを見渡せる高台で、明るい夜空を眺めながら、二人はいろんな話をした。二人には話すことがたくさんあった。なにしろ二人は若く、すっかり恋に落ちていたのだから。
父の遠征隊は夏が終わる前に西に引き揚げる予定だった。西に行って一緒に暮らそうと、父は何度も母に提案した。離れ離れになるなんて、もはや想像できない。
母も父と離れたくなかったが、父を一族に紹介することは論外だった。父は殺されてしまうかもしれない。それに、母の一族は東への移動を検討していた。この地域は新しい入植者が増え、トラブルも増えている。すでに東に移住した一家もいて、環境が良ければ連絡が来ることになっている。
そして時間切れがやって来た。二人には分かっていた。ここで別れたら、おそらく二度と会うことはできないだろう。最後の夜、二人は満月が昇る前から愛し合った。深く、ゆっくりと。短い夜が終わるまで。
フィールドワークと称して、父は洞窟の周辺を単独で散策していたところだった。この地域には古生代に形成された古い洞窟が三百もある。考古学的資料の宝庫だが、当時はまだそれほど有名ではなく、一般にも開放されていた。季節は夏。日差しはまぶしく、緑は濃く鮮やかで、どこまでも続いている。タイガの林を抜けて、父は川べりに出た。
水辺には女が立っていた。どうやら収穫した木の実か何かを洗っているらしい。この辺りには少数民族が暮らすエリアが点在しているが、目の前の人物に見覚えはなかった。父は緊張した。未知の部族との最初の出会いは危険だ。命を落とすことも珍しくない。だがしかし、父が緊張したのは身の危険を感じたからではなかった。その人がとても美しかったからだ。
母の肌の色は淡い褐色で、豊かな栗色の髪を後ろで束ねていた。瞳の色は緑がかったこげ茶色。父が今まで出会った誰とも似ていなかった。どうやって声をかけるべきか悩みながら様子を伺っていると、ほどなく母の方が父に気がついた。母は悲鳴を押し殺して岩陰に隠れた。父は心底申し訳なく思ったが、どうすることもできない。自分は危険ではないということを伝えるために、その場にじっとしていた。
首筋に太陽が直撃し、肌がヒリヒリする。額に汗が浮かぶ。立っているのに疲れて、父はできるだけ静かにその場に座った。岩の向こうで何かが動く気配がした。こちらの様子を伺っているのが伝わってくる。こうなったら、どちらが忍耐強いか競うしかない。父はこのまま立ち去りたくなかった。どうにかして話をしたかった。
幸い、それほど長く待つ必要はなかった。父の身体に蚊が集まり始めたからだ。シベリアの虫にはかなり慣れていたものの、さすがにじっとしてはいられない。父が蚊と格闘を始めると、母が岩陰から姿を現した。ためらいながらも、ゆっくりと近づいて来る。父は母を警戒させないように、蚊を払うのを一時中断した。父の意図が伝わり、母は父のすぐ近くまで歩み寄った。両者はしばし見つめあい、お互いに危険がないことを無言で確認し合った。
母は草の汁を絞って、父の肌に塗ってくれた。柑橘類とミントを混ぜたような爽やかな香りがした。母のブレスレットがチャリチャリと音を立てた。空には半月が昇り始めていた。
意思の疎通がはかれるほど会話が成立するか、心配する必要はなかった。父は少数民族の言葉を研究しており、その地域全般で使われる共通の語彙にかなり詳しかった。母はシベリア平原西部で話されている言葉をよく知っていた。「西からやって来る人は年々増えているから」と母は西の言葉で言った。
母の一族はそこから一日半ほど上流に歩いたところに住んでいた。夏の終わりの祭りに向けて壁画を描く予定なので、母は顔料用の鉱石を採集に来ていたところだった。ついでに洞窟の壁画を参考に見て回っていた。
西シベリア平原とアルタイ山脈が出会うところで出会った二人は、それから五日間を一緒に過ごした。母は周辺を知りつくしていて、エメラルドグリーンの川やミネラルの温泉に父を案内した。山菜の美味しい食べ方や、甘いベリーの選び方も教えてくれた。塩湖で泳いでから、泥のパックを塗りあって、天然の薬湯につかる。タイガを見渡せる高台で、明るい夜空を眺めながら、二人はいろんな話をした。二人には話すことがたくさんあった。なにしろ二人は若く、すっかり恋に落ちていたのだから。
父の遠征隊は夏が終わる前に西に引き揚げる予定だった。西に行って一緒に暮らそうと、父は何度も母に提案した。離れ離れになるなんて、もはや想像できない。
母も父と離れたくなかったが、父を一族に紹介することは論外だった。父は殺されてしまうかもしれない。それに、母の一族は東への移動を検討していた。この地域は新しい入植者が増え、トラブルも増えている。すでに東に移住した一家もいて、環境が良ければ連絡が来ることになっている。
そして時間切れがやって来た。二人には分かっていた。ここで別れたら、おそらく二度と会うことはできないだろう。最後の夜、二人は満月が昇る前から愛し合った。深く、ゆっくりと。短い夜が終わるまで。
これが、ぼくのゲノムが教えてくれた物語の一部だ。
サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人。かつてユーラシア大陸には、さまざまな集団が住んでいて、混ざり合っていた。東アジアに住む日本人の僕には、デニソワ人由来のDNAが0.2パーセント含まれている。約四万年前、千三百世代前の僕の父と母の出会いは、今でも僕の中で生きている。
(了)
サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人。かつてユーラシア大陸には、さまざまな集団が住んでいて、混ざり合っていた。東アジアに住む日本人の僕には、デニソワ人由来のDNAが0.2パーセント含まれている。約四万年前、千三百世代前の僕の父と母の出会いは、今でも僕の中で生きている。
(了)