他ジャンルに学ぶエッセイのコツ #02 エッセイ×スポーツ〈後編〉
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撮影:古本麻由未
「エッセイ×スポーツ」の後編は、感性・感覚で書けという前編の続編。大谷翔平の二刀流というやり方や、野球は投げて打って初めて成立するもので壁当てとは違うといった談話を通じ、翻ってエッセイはどう書くべきかを考えていきます。
エッセイのコツ
1956年、新潟県生まれ。慶應義塾大学卒。スポーツライター。「ポパイ」「Number」のライターなどを経て独立。著書は『長嶋茂雄語録』『長嶋はバカじゃない』『カツラーの秘密』など多数。新刊に『天才アスリート 覚醒の瞬間』(さくら舎刊)。
03
書くことを
トータルで考える
二刀流は別のことをやっているのではない
本塁打46、打点100、盗塁26、9勝2敗、防御率3.18、奪三振156。2021年の大谷翔平の最終成績だ。ベーブ・ルース以来の「2ケタ勝利、2ケタ本塁打」には1勝届かなかったが、ルースを上回る活躍をし、偉業と賞賛されている。しかし、小林信也さんは別の見方をしている。
小林打者か投手かどちらかを選ぶというのはプロ野球の常識であって、野球の常識ではないんですよ。打って投げてというのは、実はそんなに大騒ぎすることではないんじゃないかと思うんです。それを難しいこととしているのは、プロ野球の事情です。
言われてみれば確かにそうで、アマチュア野球では投手も打者になるし、投手以外の人は野手になる。ことさら分けるほうがおかしかったのかもしれない。
小林守備なんか特にそうですね。ボールが飛んでくるのを打つか捕るかが違うだけで、ボールとの関わり方は実は全く同じなんです。投げるという動作はまたちょっと違いますが、ある意味、両面というか、一体です。両方あって野球です。
調べて書く。これも二刀流
投げることと打つことは一体ということだが、これは野球に限らない。多くのことは複数の行動が一体になって完結する。
小林野球は投手が投げて打者が打つ、打球を捕って投げるという複数の行動がトータルにならないと実りにならない。両方があって初めて実りになる。分けられないんです。
それは書くことも同じだと言う。
小林それで言えば、『取材すること』と『書くこと』は全く違う動作ですが、両方ないと原稿が書けません。ある意味、これも二刀流なんです。
エッセイで言えば、題材について調べたり、経験に照らし合わせたり、思索したりすることが取材にあたり、取材したこと(インプット)と書くこと(アウトプット)が一体になって初めて文章が頭からでてくるのだ。
小林皆さん、一つ一つの行為を別々のものとして考えすぎているのかなと思います。そういう意味では大谷翔平は『物事はもっと一体なんですよ』ということを感じさせてくれているんじゃないかなと思います。
取材することと書くことが一体にならないと実りにならない。
04
書くことは
読者との勝負である
書くことと読まれることも一体
小林一般の書き手と一番違うなと思うのは、プロは読んでもらうことを前提に書くことです。書くことと読まれること、これも一体なんです。つまり、読んだ人がどういう気持ちになるかを感じながら書く。自分が書きたいから書くとか、自分の文章につい酔ってしまうとか、ぼくもそういうことがないわけじゃないけれど、野球が投げて打って初めて成立するように、文章も書く人がいて、それを読んでくださる人がいて初めて成立するんです。
相手がいて初めて成立するのが野球なら、どうしたら相手に伝わるかも考えずに書くのは、壁に向かってボールを投げているようなもの。それでは野球にならない。
小林テレビだって5秒ももたついたらすぐにチャンネルを変えられてしまう時代じゃないですか。これも一般の方にありがちな勘違いですが、『書いたものは必ず読まれる』『読み始めた人は最後まで読んでくれる』と思っているんです。そんな保証はありません。
小林さんは、そのことを若いときに編集者に教わったと言う。
小林ぼくは25歳のとき、雑誌『Number』の編集者に、『小林くんの文章なんか1行読んでつまらなかったら、2行目なんて誰も読まないよ』と言われました。これは強烈でしたね。でも、そうなんですよ。どうしたら手にとってもらえるか、引きつけられるか、次の行に進んでもらえるか、戦略は必要です。
この戦略も、考えるというよりは、感覚的にできるようにしておかなければならない。
誰もが知っていることを書いても意味がない
書くときは、相手の裏をかき、思いもよらぬボールを投げるような工夫が必要だ。
小林ぼくはボールの遅いピッチャーでしたから、どれだけ速いボールを投げるかを競うより、いかに相手を翻弄するかが楽しかったですね。文章を書くときも同じで、普通ならこう書くところ、こう書いてみたと。結果、失敗に終わるのか、意外と気を引いてこちらの思いに導くことができるのか。それは読者との勝負だと思います。
読者との勝負なら、手の内がわかってしまうような攻め方をすれば打ち取れない。相手を翻弄したいのなら、アウトコースを攻めるとみせて胸元をえぐるような配球もしなくてはならない。
小林一般の方がスポーツを書くと、ひねりがないというか、そのままでつまらないことが多い。『あのとき、大谷がホームランを打ち、とても感動した』ということは酒飲んで何度も語り合えばいいこと。それはスポーツの一つの楽しみだけど、それだけならわざわざ文章に書く必要はないんですよ。
誰でも知っているようなことを書くのでは、書く意味がない。それはど真ん中に棒球を投げるようなものだ。
小林文章に書くことは、みんながうっかり見逃しているようなこと。たとえば、本当はAという理由で感動したのに、世間は目に見えるBという理由で感動したと思っている。でも、本当の感動はそんなところにはなくて、無意識の中にこそ感動のスイッチはあるはず。その感動のスイッチを提示することができれば、書く意味があるし、読む意味もあると思います。
相手を翻弄するには、相手が思いもしないボール(文章)を投げなければならない。
〈前編〉