ビギナーズ小説大賞 佳作「ガイジ」
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モモを抱っこして、診断書と印鑑と免許証を持ち市役所に行った数か月後、私は障がい者になった。いとも、簡単に。
開封し、障がい者手帳を手にしたリビングルーム。CDコンポから流れるケニーGを聴いていたら、湿った日めくりカレンダーのごとく次々と記憶が呼び起こされた。白井先生が担任だった小学四年生の時の出来事。通学路に『希望作業所』という施設があった。どうやら『普通でない』人たちが、『なにやら作って』いるらしい。そんなうわさだけ、クラス中に漂っていた。
校庭の紫陽花がもこもこと濡れて陰鬱な帰り道、大きく腕を上げたり下げたりしながらウーウー唸り、走り回るおにいさんに出くわした。同じクラスの男子が「うーやん、うーやん」とからかい石を投げている。ピアノの時間に遅れそうな私は、見てみぬふりをした。施設の前で雨が降り出した。傘を差そうと立ち止まった足元、大きな水たまりの中から視線を感じ凍り付いた。あれはおそらく、ゼリー状の塊の中でうごめく何百ものおたまじゃくしの、非難の眼球の、集合体だった。
またある夏の放課後。鈴子と一緒にうんていに夢中だった私は、校門の向こうからじっと見ている女の子に気が付いた。太っていて、不潔そうで、ぴっちり肌に張り付いた汗まみれのTシャツからは、二百メートル離れたこちらにまで悪臭が漂ってきそうだった。同い年くらいだろうか。いっしょに遊びたいのだろうか。気になったが、無視して遊んだ。しかしよく見ると女の子はにこちゃんボール(透明で、にこちゃんマークが書いてある当時はやっていたビニールボール)を握っていた。くだらないと買ってもらえなかった私は興味を持った。デブの女の子にではなく勿論ボールに、だ。
「それ、いいね」
遠くから大声で叫ぶと女の子はにんまり笑って真っ白い歯を見せた。真っ黒に日焼けした顔面に横一線の白。それから突然走り寄ってきた。鼻を突く臭気に後ずさりする私にお構いなしで、女の子はボールを押し付けてきた。
「貸してくれるん?」
「たっ」
女の子は上手に声を出すことができない様子だった。『ラッキー』あるいは『もうけもん』この時の気持ちを言葉にするとたぶん、そんな感じ。鈴子とのキャッチボールはとても楽しかった。私は女の子を仲間に入れなかった。そして気が付くと、女の子はいなかった。にこちゃんボールを校庭の隅に置き去りにした。その夜は両掌の肉刺がつぶれて痛いのと暑いのと罪悪感とで、なかなか寝つけなかったことをはっきりと、覚えている。あとそう、眼のない蛇の夢をみた。
二学期が始まっても残暑厳しい日曜日の真昼。灼熱の太陽にさらされて熱いに決まっているドラム缶の上にわざわざ胡坐をかき、メロンパンを次から次へと口に押し込む短パン男児を見かけた。施設の畑の、端の方。私はなぜか、話しかけてみたくなった。おなかがすいていたのかもしれない。ともかくも私は、声をかけた。
「おいしい?」
しばらくもぐもぐしながらこちらをじいと見返し、彼は言った。
「ふつう」
「名前教えて。私、ハル」
「せえや」
のちに私はこのせえやくんと恋に落ちる。ふつうって、なんじゃろ? あんたも『普通じゃない』人間のひとりなん? 私が世の中の『普通』を意識し始めたのはああ、このころだったかしら。
確実と思われた受験に失敗し、地元の中学校に入学した私に居場所はなかった。同じ小学校から上がった同級生たちは私を知らない子のように扱った。みんながついてくる永遠のリーダーだと勘違いしていたのは私だけだったと打ちのめされてなんか、笑えた。美人の鈴子は巧みにすうっと、離れていった。
小学校も中学校も、通学路はほぼ同じ。いつしか『希望作業所』に寄ることが私にとってまさしく、生きる希望となっていた。顔を出すと『普通でない』人たちは満面の笑顔で歓迎してくれる。うーやんも、あの女の子も、少しだけ年を重ねてそこにいた。まっすぐ彼らを見つめられない。笑顔を向けられるたび、みぞおちあたりに文鎮を置かれたような鈍痛が、左右の頸動脈からのど仏に向かって針が一本貫通したような激痛が、セーラー服越しに思春期の肉体をキュウと、縮ませた。
彼らは主に、ミシンを踏んで一日を過ごした。たまに外で野菜の収穫や種まきもやっていたが、一部の人だけ(施設の人たちは『軽い人』と呼んでいた。おそらく障がいの程度が『軽い人』)らしかった。その中に、せえやくんはいた。ドラム缶の出会いから二年たっていたがせえやくんは私を忘れていなかったし、私も覚えていて無意識に再会を喜んだ。話せば話すほど、せえやくんは『ふつう』の青年だった。恋をして、二人でカラオケやマックに行った。すべてお見透しのようなどんぐり眼が最初怖かったけれど、すぐに慣れた。せえやくんはもう、メロンパンを際限なく口に放り込んだりはしていなかった。
結婚しよう、と言った。
希望作業所を卒業して、せえやくんは地元の缶詰工場で働き始めた。私の大学院修了を待ち、結婚した。ともに暮らした八年間。ごく普通の結婚生活だった。娘のモモの顔を見ることなく二年前、せえやくんは仕事中の事故で亡くなった。残された私は半年前、あのベランダからダイブした。
『ガイジのくせに生意気だ』と、先輩からいじめられていたことも葬儀の最中たまたま聞こえた。本当に事故だったかどうかなんてもはやどうでもよかった。
ドラム缶から二十年がたち、今日私は障がい者になった。
せえやくん、私は『ガイジ』になりました。障がい児のうしろ三文字。ずっとそんな風に言われ、差別を受けてきていたね。笑い飛ばして私のことを、お嫁さんにしてくれました。普通って、なんじゃろか? モモはダウン症。モモも、『ガイジ』? 私も体の大きな『ガイジ』?
あんなに特別視した障がい者というひとくくり。今は自分がその、内側にいる。何にも変わっていないのに。
『普通』でないと、今の日本は生きづらい。自分と違うものを、排除する社会。二十年前よりきっとずいぶん良いけれど、私は不安でいっぱいなんよ。でも、それでもがんばって生きるけん。見とってほしいわせえやくん。何言われても笑い飛ばしとったせえやくん見習って、モモと毎日がんばるけ。疲れとるけど、ほんまもう限界なんじゃけど、もう一寸、生きてみるけ。
ベランダのパキラが丁度、夕陽のスポットライトど真ん中。
長いこと水もやっとらんのに、よう枯れずに堂々と生きとるわ。私はモモの母親じゃけん、ダイブなんかしたら、いけんかったんよねせえやくん、ほんと、ごめなさい。 母親に、ラインしてみよう。ひとりじゃどうも、いけんんけ。生きとったらまだ楽しいこといっぱいあるじゃろ。信じてみるわ。
「だあ、だぁ」
モモの声で我に返る。慌てて抱っこするとニコニコ。エンジェルズスマイルだ。もともと細い私の眼尻から他人事のようにそっと、ピィっと熱いものが尾をひいた。久しぶりに、泣いている。ケニーGはまだ、流れている。このCDのラスト。
いのちがあるだけで、大切な存在。
生きとるだけで、ええんよ私ら。
私はもう、大丈夫。
そうよね、せえやくん?
(了)