短歌・俳句・川柳 どこが違うか? 俳句編
連歌(俳諧)の発句が独立したもの。連歌(俳諧)はまず宗匠が発句(五七五)を詠み、これに亭主(主催)が脇句(七七)を付ける。その後は他の参加者により五七五と七七をくり返していく座の文芸。俳句という呼称は明治期に正岡子規が「俳諧の発句」を略して命名。それ以前に俳句の呼称はなく、地発句と呼ばれていた。連歌の発句には世界観が必要であり、季節も限定しないとあとが続かないため、季語がある。そのため、これを引き継いだ俳句にも季語がある。
〈ときは今天が下しる五月哉水上まさる庭の夏山〉となる。
第三句は脇句に合う上の句を考える。つまり、
〈花落つる池の流れをせきとめて水上まさる庭の夏山〉となる。
以降、この方式をくり返す。
(明智光秀の連歌会「愛宕百韻」より)
五七五(17音)
原則は文語。俳句はもともと自然を詠むことが多く、叙情詩。季語を詠み込み、季語を立てる。季語を除くと12音ぐらいしか使えず、そのため、小さな感情をさらっと言うことが多い。改行、分かち書きをすることがあるが、本来はしない(短冊に1行で書く)。現代俳句では記号や空白、外来語を使うこともある。数え方は1句、2句。
<季語>
季節を表す言葉。およそ8000あると言われる。1句の中に違う季節を表す季語があるのはタブーとされ、同じ季節を表す季語でも二つある季重なりもNG(ただし、メインとなる季語が明確であれば許容される場合もある)。
<切れ>
〈古池や/蛙飛びこむ水の音〉のように意味が切れるところ。映像のカットが切り替わり、句の世界が二重構造になる。
ちなみに「古池や」で切れるのであり、「古池に」とまでは言っていない。
<詩>
俳句は一編の詩であり、叙情詩。詩のない俳句は単なる報告、感想になる。
俳句は心のカメラで外を見て、心に留まった情景を発見する感性と、それを切り取る能力が求められる。短い中にも詩がなければならないが、号泣するような大きな感情を表現したり、あれもこれもと一度に多くのことを詠み込むことは物理的にも難しい。
俳句は「季語あり、切れあり、文語体」。ただし、無季俳句、切れなし、口語俳句もある。
俳句も川柳も連歌から独立した血を分けた兄弟だが、俳句は松尾芭蕉が確立した蕉風の句により、文学性を持ち、滑稽味を失った。
とはいえ、叙情的なのが俳句で、滑稽なのが川柳というほど単純ではなく、川柳的俳句もあれば、俳句的川柳もあり、両者の差は紙一重でもある。
ただし、正岡子規によれば、〈俳句にして川柳に近きは俳句の拙なる者。(中略)川柳にして俳句に近きは、川柳の拙なる者。〉(正岡子規「俳諧大要」)。相手に近づきすぎると自分の本来の良さを失う。
■プロ志向
プロの登竜門的な公募は、50句1組などで応募する。
■文化事業
偉人の顕彰を目的に俳句大会が開催され、その一環として公募される。
■投稿企画
雑誌、番組などが俳句コーナーを持っていて、投稿を募集する。
〈分け入つても分け入つても青い山〉(種田
字余りと字足らず(句またがりや句割れなど、五七五のリズムでないものは破調とする考え方もある)。
句またがりは五七五で切れず、上五と中七、中七と下五を文節がまたいでいることを言う。句割れは上五、中七、下五の中で意味が切れることを言う。
▼五七五で切ると
木の葉ふり/やまずいそぐな/いそぐなよ(加藤楸邨)
万緑の/中や吾子の歯/生え初むる(中村草田男)
算術の/少年しのび/泣けり夏(西東三鬼)
▼意味で切ると
木の葉ふりやまず/いそぐないそぐなよ(加藤楸邨)
万緑の中や/吾子の歯生え初むる(中村草田男)
算術の少年/しのび泣けり夏(西東三鬼)