公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第8回W選考委員版「小説でもどうぞ」佳作 天国からの恩返し 翔辺朝陽

タグ
作文・エッセイ
小説でもどうぞ
結果発表
第8回結果発表
課 題

悩み

※応募数323編
 天国からの恩返し 
翔辺朝陽

「それじゃ行ってくるよ。待っててね」
 妻の遺影にそう語りかけると私は身支度を整えて外に出た。今日は妻の和子の命日。亡くなってちょうど一年が経った。
 ずっと二人で生きてきた。子供はいない。妻は私が定年で退職して間もなく目を患い、趣味の散歩をする時には白杖が手放せなかった。心配で二十年間、外出する時はいつも妻に付き添った。そのうち次第に、二人で散歩するこの時間が何より私の楽しみにもなった。
 その妻はもういない。天涯孤独となった私は早く妻の元に行きたかった。しかしどうしても死にきれない毎日が続いた。このまま妻のいない人生を生き続けるか、それともすぐにでも妻の元に行こうか私は悩んでいた。
 私は悩んだ末、死ねる環境を作って自分を追い込んでみることにした。ターゲットを妻の命日にし、契約しているものはすべて解約し、家財も整理し家の隅から隅まで掃除した。そして死後のためにエンディングノートを記した。これでもう思い残すことはないはずだ。
 早朝に家を出た。すでに空はうっすら明るくなっていた。三月も半ばを過ぎ、駅に続く道沿いの桜の蕾も紅く膨らみかけている。これから人も草木も活発に動き出す季節になると思うと我が身の孤独が痛いほど身に染みた。
 気が付くと駅のホームに立っていた。廃線が噂されている地方のローカル線の無人駅に人の気配はない。自然とホームの後方に足が向いた。そこは妻と初めて出会った場所だ。東京へ行きたいのだが新幹線の駅までどう乗り継いでいったらいいのかと訊かれたのが最初の出会いだった。たまたま通勤でいつも使っているルートだったので、話をしながら途中まで一緒に行った。私は妻に一目惚れした。
 結婚してからは子供もいなかったので二人でよく旅行に出かけた。出発はいつもこの駅。想い出が尽きない場所だった。最後の場所としてふさわしい――そう思った。
 ふと我に返ると、前を老齢の婦人が歩いている。誰もいなかったはずなのにと思いながら少し距離を詰める。その後ろ姿に息を呑んだ。痩せた体を少し前に傾けながら白杖を突いて歩いている後ろ姿は妻そのものだった。
 和子が迎えに来てくれたのか――。
 咄嗟にそう思った。私は吸い込まれるように婦人の後に付いていった。
 あと少しでホームの端まで辿り着くところで、婦人の進路が少し線路側にそれたと思ったら突然私の視界から消えた。
 まさか……落ちたのか⁉――。
 急いで駆け寄り線路を覗き込むと婦人が線路上に仰向けに倒れていた。「大丈夫ですか」と声をかけると顔をしかめながら頷いた。私は反射的に線路に飛び降りたが、齢八十過ぎの足腰では自分の体重をしっかりと支え切れず、着地すると同時に四つん這いになったまましばらく動けなくなった。膝に激痛が走る。
 幸いまだ列車が来る気配はなかったので、ゆっくり体勢を立て直すと仰向けに倒れていた婦人を抱き起した。落ちたショックで体に力が入らない様子でずっしり重く感じた。私は身をかがめて婦人の腰辺りを抱えると足を思い切り踏ん張ってホーム上に婦人を抱き上げた。その瞬間、雷が落ちたような激痛が膝に走り、立っていられなくなって線路上に尻もちをついた。臀部にかすかな振動を感じた。
 いかん、列車が来る――。
 私は焦った。死ぬために来たのだからこのままここにいれば思いを遂げられるのに、このときはなぜか婦人を置いたまま死ぬわけにいかないと思った。必死に起き上がろうとしたが膝に力が入らない。線路の振動は増々大きくなり、列車の姿もおぼろげながら見えてきた。思わず「助けてくれー」とありったけの声を振り絞って助けを求めた。
 そのときだった。私の目の前に白杖が差し出された。
「早く! これに摑まって!」
 頭上から切迫した女性の声が響く。私は無我夢中で白杖に摑まると、これを支えに体を起こし、かろうじてホーム上に這い上がることができた。間一髪だった。這い上がるなり婦人が「ありがとうございます。何とお礼を言っていいのやら」と手探りで私の手を探すと両手でしっかり握りしめながら言った。
「いや、礼を言うのは私の方だ。白杖を差し出してくれなかったら私の命はなかった」と返すと婦人は何のことやらポカンとしている。白杖を探すがどこにも見当たらない。
 あれは白杖ではなかったのか。いや、たしかに白杖を掴んだ。掴んだときに白杖は微動だにしなかった。この婦人にそんな力があるとは思えない。頭上から聞こえた「早く! これに摑まって!」の声も今から思えば婦人の声とは似ても似つかない声だった。
 和子だ。和子に違いない――。
 改めて婦人の顔をじっと見つめる。
 私には一瞬その顔が菩薩に見えた。
 生きて――と和子の声が聞こえた気がした。私の悩みは跡形もなく解消していた。
(了)