公募Q&A「著作権」 既存の作品に酷似した受賞作品を見つけたときは?
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受賞作品が既存の作品に酷似していると思います。主催者や既存の作品の作者に伝えればいいですか。
慌てず騒がず冷静に検証を。誹謗中傷などはしないこと。
似ていても著作権侵害でないことがほとんど
受賞作品のパクリ疑惑ということですね。
著作権は親告罪ですから、被害者が訴え出て初めて罪になります。
それもあって「盗作されていませんか」と主催者や原作者に教えてあげたくなるものです。
しかし、ほとんどのケースは著作権侵害に当たりません。
著作権侵害は「引き写したようにそっくり」でなければ認められないことが多いですし、そもそも盗作されたとされる文章は著作物ではないかもしれません。
著作物とは「思想または感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するもの」(著作権法2条1項1号)であり、「歴史的事実、データ、ありふれた表現、題名、ごく短い文章」は著作物ではありません。
誰かが〈関ケ原の乱は1600年に起きた。〉と書き、別の誰かがこれとそっくり同じことを書いたからと言って、著作権侵害にはなりません。
ですから、「盗作か?」と思っても、いたずらに騒がないこと。ましてや、「盗作、許すまじ」という勢いでSNSなどに投稿するのはやめましょう。下手をしたら、あなたのほうが名誉棄損で訴えられかねません。
ということで、「酷似している」と思ったときの対処は「下手に騒がず、本当に問題があるのかどうかよく調べてみること」に尽きます。
回答はこれで終わりです。
ただ、盗作や剽窃の問題は奥が深いので、このあと、少し長めの解説をします。興味があったら、読んでみてください。
盗作問題は道義的な問題とオリジナリティーの問題
「歴史的事実、データ、ありふれた表現、題名、ごく短い文章」は著作物ではないと書きましたが、ストーリーや展開、設定も同様です。
ストーリーには創作性がありそうですが、こうしたアイデアにまで著作権を与えるということは、誰かに独占権を与えるということです。それではやりすぎです。
誰かが「男女が入れ替わるというストーリー」を考えたら、もう誰もそれを真似できない、真似したら訴えられるとなったら、誰も創作なんてしません。
こうした創作のアイデアは社会の共有財産として誰もが再生産できるようにしたほうが文化の発展につながります。それは著作権法の精神そのものです。
つまり、ストーリーや設定は似ていてもいい(著作権法では保護されない)わけですが、だからといってオールOKかというと、そうではありません。
悪意のある盗作は、著作権法で裁けなくても、道義的には許せません。
悪意がなくても既存の作品と同じなら、オリジナリティーがない(自分のものではない)という意味で存在意義が問われます。
道義的に許されない盗作事件を一つ、紹介しましょう。
昭和34年に実施された「第12回講談倶楽部賞」の受賞作は『殉教秘聞』(有城達二)でした。ところが、この作品は3年前に寺内大吉が発表した『女蔵』を丸写ししたものだと読者からの指摘で判明しました。
調べてみると、『女蔵』との違いはたったの三カ所だったそうです。それは違いというより、写し間違いだったかもしれません。
しかも、この人、受賞コメントまで別の賞の受賞者の弁を丸パクリしているのです。
昭和34年ですから、知的財産権への意識も薄かったでしょうし、インターネットもありませんから、バレないだろうと思ったのかもしれませんが、それにしても丸パクリは論外ですね。当然、受賞は取り消されました。
事実を書いてもノンフィクション作品は著作物
昭和の時代は、知的所有権的には無法地帯だったようです。
「歴史的事実、データ」は著作物ではないのは事実ですが、これを拡大解釈し、ノンフィクション作品は事実を書いたものだから無断利用していいと思われていたようです。
このことが最初に問題となったのは、宮原昭夫の芥川賞受賞作『誰かが触った』です。同作はハンセン病療養所内の分教室を描いた作品ですが、この教室の教師が書いた『らい学級の記録』というノンフィクション作品があり、『誰かが触った』はここから素材を借りていると問題になりました。
最終的には素材こそ借りているが小説として昇華されており、問題なしとなりましたが、事実を書いたものでも表現の借り方によっては問題になると、当時の“常識”に一石が投じられました。
似たような問題は、つい最近もありました。
2018年に群像新人文学賞を受賞した北条裕子さんの「美しい顔」の中に、石井光太さんのルポルタージュ『遺体 震災、津波の果てに』に類似した箇所があるという指摘がありました。
盗作、剽窃ではありませんでしたが、参考にはしており、参考文献として挙げておいたら、あるいは問題にはならなかったかもしれません。
こういうケースは、皆さんにも起こり得ます。
大きな事件、事故を扱う場合、資料として報道文やノンフィクション作品を読むのは当然ですが、その際、資料の中の創作物と言える文章をそのまま書いてしまった箇所があり、それを読んだ人に「この箇所は偶然似たのではないな」と思われたら問題になり得ます。
通常、そうした箇所があっても、「似たような体験は誰でもするし、似たような感想を持つこともあり得る」と流してもらえるものです。
しかし、それが大きく報道された事件、事故について書いたものであった場合、「あの本のあの箇所と同じだ」と思われやすいのです。
結果、著作権法的には問題ないのに、「盗作かも」と言われてしまったりします。そう言われないようにするためにも参考文献として挙げておくほうがよいようです。
メディアが違っても著作物は著作物
次は、異種メディア間での引用問題です。
問題になったのは、2002年。田口ランディ『アンテナ』『モザイク』の二作の中に、田口ランディ氏の知人がネットに書いた日記と瓜二つの描写があると大手新聞各紙が報じました。
版元は他人の著作物からの無断使用を認め、単行本の『アンテナ』『モザイク』を絶版とし、改稿のうえ文庫化。作者の田口ランディも無断使用を認め、謝罪をしました。
2002年はインターネットが普及してまもない頃で、ネットに書かれたものだからいいという誤解があったのかもしれません。田口ランディ自身も、無断使用したのは著作権に対する認識不足と回答しています。
もう一例、紹介しましょう。小説を下敷きにシナリオにした例です。
1992年、第5回ヤングシナリオ大賞の受賞作は、富田岩太郎「『アンナ』のテーマ」でしたが、授賞式後、局内で「似た作品を読んだことがある」という声が上がり、同様の投書も寄せられました。
調べてみると、受賞シナリオから、高樹のぶ子の芥川賞受賞作『光抱く友よ』とはっきり類似した箇所が四カ所、見つかりました。
本人に確認すると、「『光抱く友よ』をベースにドラマ化した」と認めました。
あっさり認めたということは、「小説からシナリオ」という形でメディアが変わっているからOKという認識だったのかもしれません。
さらにもう一例。1987年に文學界新人賞を受賞した鷺沢萠の「川べりの道」は、吉田秋生の漫画『河よりも長くゆるやかに』から人物設定を採っていて、印象もよく似ていると指摘されました。
鷺沢萠自身も「吉田秋生さんって好き」と言っており、『河よりも長くゆるやかに』を下敷きにしたことは間違いないと思われます。
ただ、盗作をするのなら、そうとはわからないように設定などを大きく変えるはずです。それをしなかったということは、「漫画から小説へと表現の場が変わっているから問題にはならない」という意識があったのかもしれません。1987年は昭和62年、あり得る話です。
「盗作だ」と思ってもちょっと待って!
さて、「似た作品だな」と思ったとして、それを通報(連絡)するかどうかですね。
まず、何が似ているのかを調べましょう。
「歴史的事実、データ、ありふれた表現、題名、ごく短い文章」は似ていても問題ありません。著作者の死後70年が経ち、著作権が切れたものと同じでも問題ありません。昔話や民話も著作物ではありません。
ノンフィクション作品から採る場合は、引き写したようにそっくりかどうかが問題になります。単に同じ出来事を扱っているというだけなら問題なし。表現が同じでなければ問題ありません。
次に、ストーリーや設定が似ている場合です。
この場合は、どの程度、似ているのかを検証しましょう。
最近、TBS系列の「日曜劇場」で、「アトムの童」というドラマをやっていました。
第1回の放送が終わった時点では、同じ「日曜劇場」でやっていた「下町ロケット」や「陸王」に似ているという声があったそうです。
しかし、これは「大企業vs弱小企業」という構図が似ているだけです。盗作とか剽窃とか、そんなことではありません。
テレビ東京でドラマ化された漫画「チェイサーゲーム」に似ているという声もありました。また、同じくテレビ東京でドラマ化された漫画「東京トイボックス」に似ていると指摘する人もいました。第1回、第2回の放送あたりでは、設定や人物の配置は似ている気もしましたが、その後の展開を見ると、全然別のストーリーですね。
というように、「似ている」と言っても幅があります。
慌てず騒がず、時間をかけて冷静に検証しましょう。周囲に意見を聞いてもいいです。
「似ているけど、この程度はセーフだと思うよ」と言うかもしれません。
少なくとも、正義感にかられ、事実確認もせずにSNSで「パクリだ」などと誹謗中傷することは厳に慎みましょう。一歩間違えば言葉の暴力、犯罪になりかねません。
参考文献:栗原裕一郎著『〈盗作〉の文学史』