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第5回「小説でもどうぞ」選外佳作 コイントス/屋敷葉

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第5回結果発表
課 題

賭け

※応募数242編
選外佳作「コイントス」屋敷葉
 分娩台の横で、手の甲に爪を立てられながら俺は妻の手を握っている。三月二十四日、午前五時二十一分。我が子が産まれようとしている。想像を絶する出産の痛みに顔を歪める妻を見て、俺は二十五年前の夏の日を思い返さずにはいられなかった。これほど大変な思いをして産んだはずの子の親権を、俺の両親はなぜ、「コイントス」なんかで決めようと思ったのだろうか。

 ささくれ立った畳の上で、父と母の間に挟まれ、俺はいつまでも泣いていた。壊れかけたクーラーの音が、カタカタと煽るようにうるさかった。
 母は、手の甲に鈍く光る十円玉をのせて、姿勢を正し、大きく深呼吸をした。父は母の足元で正座をし、小さく縮こまり、十円が宙に浮く様子を眉根を下げて見つめていた。
 平等院鳳凰堂の面が出たら、親権は母に。数字の面なら親権は父に。そう決まっていた。
 俺はひたすらに泣いていて、気付いたら母に手を引かれていた。父は畳の上に突っ伏してしばらく動かなかった。母は、平等院鳳凰堂の面が上になっている十円を誇らしげに見つめ、それから財布にしまっていた。すぐに別居というわけにもいかず、その日は重苦しい雰囲気の中を三人で過ごした。父のすすり泣く声が、半日以上居間に響いていた。

 離婚をしたからといって、父と会わなくなるわけではなかった。むしろ会う頻度は多く、三週間に一度は父と顔を合わせていた。
 父は会うと必ず、俺におもちゃを買ってくれた。離婚当時、まだ六歳だった俺は戦隊もののプラモデルに目がなかった。
 母と違って、父は高くてもいいからと、好きなものを自由に選ばせてくれた。そして必ず「なあ、家に帰って一緒にこれ組み立てようやあ」とこぼすのだった。俺は「ダメだよ。時間守らないと、また母ちゃんに怒られるよ」と父をなだめていた。その度父は、茹でたほうれん草のように萎れていた。
 父は必ず俺の手を握って歩き、別れ際には抱き寄せた。嫌になるほど全部の力が痛かった。子供ながらに、こういう女々しくて、調整の効かない所に母は嫌気がさしたのではないか、と思ったものだった。
 寂しがり屋なくせして、父は再婚をしなかった。三年前の凍てつくような寒い日に、一人脳卒中で死んでしまった。

 夫婦というのは不思議なもので、母は父の葬儀の時「ごめんなさいね。本当に……。ごめんなさいね」と繰り返し、大粒の涙を流していた。何に謝っているのかは分からなかったが、つられて俺も泣いていた。

「ほらちょっと、旦那さん! 奥さん頑張ってるんだからぼうっとしてないで。もう頭出ましたよ。早く、カメラ回さないと!」
「あ、ああ……」
 ふくよかな看護婦の声で俺は我に返る。
 妻の股の間から、ふぎゃあという産声と共に赤ん坊が取り上げられている。
「男の子ですよー。よく頑張りましたねえ」
 看護婦の手から妻の胸に我が子が渡っていく。カメラを回す手が震えだし、足がすくんだ。ブレた映像を見る妻に、後で文句を言われそうだ。しかし、必死に堪えようにも震えは止まらない。妻のすすり泣く声と我が子の産声がない交ぜになって耳に届く。俺はレンズ越しから、しばらくその光景を眺めていた。
「じゃあ、へその緒切る前に、旦那さんにも抱っこしてもらいましょうね。いきますよー」
「お、おお……」
 赤黒い赤ん坊を俺は腕に抱く。優しく、慎重に触れなければいけない。分かっているが、勝手に力がこもっていく。

 ああ、そうか。俺は初めて我が子を抱いて、二十五年間の謎が溶けたような気がした。子を手放す親の痛みを、ぼんやりと知る。
 親権を賭けた、あの夏の日のコイントス。あれはいい加減な思いで行われたことではなかったのだ。
 父と母は永遠に続く愛の平行線に、無理にでも決着をつけなければいけなかったのだろう。
 一度愛し合った者同士が、愛ゆえに争った。しかし、いくつになっても父は俺の父で、母は俺の母だった。
「ちゃんとカメラ回してくれてたでしょうね?」
 妻がしかめ面で俺に言う。
「ああ、もちろんだよ」
 目を逸らさずに俺は言う。腕の中で、名もない我が子が、ほぎゃあと泣いた。俺は父になり、妻は母になる。
 俺たちは、確かめ合うように、ふっと笑った。
(了)