第5回「小説でもどうぞ」選外佳作 どっち?/上野餡子
第5回結果発表
課 題
賭け
※応募数242編
選外佳作「どっち?」上野餡子
「ねえ、貴裕」
日曜日、午前十一時過ぎ。天気、晴れ。
窓から穏やかな陽光が差し込むリビングでのんびり足の爪を切っていた俺は、背後からかけられた妻の真紀の声に身体を強張らせた。
伊達に十年夫婦をしてきたわけじゃない。「ねえ、貴裕」のイントネーションで、真紀の要件は察しがつく。
「なに?」
パチンパチンと軽快に扱っていた爪切りを、パチ……パチ……という慎重な速度に落として、自分の足からは視線を逸らさずに返した。真紀がすぐ後ろにやってきた気配を感じる。より自分の足の先を見つめるように努めた。
「今日、どっちの服がいいと思う?」
やっぱりそう来たか……!
恋人がいる男なら、一度はこの非常に困る質問をされたことがあるのではないだろうか。
「ねえ」と急かすように言われて、俺は仕方なく振り向いた。
真紀は右手に袖がレースになっている白いシャツを、左手には袖が風船のように膨らんでいる青いシャツを持っていた。最近じゃシャツではなく「トップス」というらしいが、まあ今はそんなことはどうでもいい。
問題は「答え方を誤ると真紀の機嫌を損ねて穏やかな休日は消失する」ということだ。
だが、どっちがいいかと聞かれても。
正直に言えば、どっちでもいい。どちらの服も際立ってどうとは思わない。着用している姿も見たことがあるが、変だとは感じなかった。どちらもそれなりに似合っていた。
「どっちも可愛いよ」
一縷の望みをかけて、にこやかにそう返してみた。だが真紀は
「もう、そうじゃなくて。どっちがいい?」
と頬を膨らませた。やっぱり駄目だった。
ここで面倒なのは、例えば俺が片方の服の方が際立っていいと感じていたとして、それが正解とは限らないということだ。
俺が選んだ服が真紀の中の正解でない服だった場合、「え~? こっちぃ?」などと不機嫌になる。聞かれたから答えただけなのに、実に理不尽だ。すでに正解が決まっているなら聞くなよと心底思うが、その疑問をぶつけても機嫌を損ねる。
「選ばない」という選択肢は存在しない。だが、適当に選ぶわけにもいかない。
「こっち」と選べば「どうして?」と選択理由を聞かれる。適当に選んだものに理由なんて無いが、答えに窮すると恐ろしく敏感な女の勘に見破られ「適当に選んだでしょ」「私に興味が無いのね」とこれまた機嫌を著しく損ねることになる。今こんなに困っている俺の心境は全く察知してくれないが、そういうバレたくないことばかりは鋭敏だ。
「そうだなぁ……」
改めて、両方の服を見比べて考える。
袖がレースの白いシャツ。いやトップス。
(非常に女性的なデザインですね。清楚な雰囲気で、素敵だと思います)
そして風船みたいな袖の青いトップス。
(袖がお姫様のドレスのようで可愛いですね。素敵だと思います)
うん、これが限界だ。俺は頑張った。
果たしてどっちが真紀好みの答えだろうか。
どちらも誉め言葉のつもりなのだが、時に「なによ、そういう女が好みなの?」と、好みの服の話がいつの間にか好みの女の話にぶっ飛び、急に怒り出したりするので、こちらも慎重に選ばなければならない。
真紀は俺の返事を待っている。いつまで待たせるのよ、とでも書いてありそうな顔は明らかに苛立っている。もう決めるしかない。
「青い方かな。お姫様みたいで可愛いし」
引きつりそうになる頬で必死で笑みを作る。真紀の反応は、果たして。
「そう? じゃあ、こっちにしようっと」
当たった……!
「そう?」の少し高い声のトーンでわかる。真紀は鼻歌でも歌い出しそうな足取りで、クローゼットのある寝室へ消えた。
天井を仰ぎ、ゆっくりと息を吐く。時が止まっていたかような感覚があるが、実際は数分も経っていないのだろう。
日曜日。午前十一時過ぎ。天気、晴れ。
再び訪れた穏やかな休日に、思わず笑みがこぼれた。自分こそ鼻歌でも歌いたい気持ちになりながら、すっかり中断していた爪切りを再開した。 そんな時だった。
「ねえ、貴裕」
体が強張る。このイントネーションは。
「下はどっちがいいと思う?」
今度は振り向く覚悟をする暇もなかった。
今度は俺の目の前にやってきた真紀の手には、全く同じデザインの色違いのスカートが握られていた。
(了)
日曜日、午前十一時過ぎ。天気、晴れ。
窓から穏やかな陽光が差し込むリビングでのんびり足の爪を切っていた俺は、背後からかけられた妻の真紀の声に身体を強張らせた。
伊達に十年夫婦をしてきたわけじゃない。「ねえ、貴裕」のイントネーションで、真紀の要件は察しがつく。
「なに?」
パチンパチンと軽快に扱っていた爪切りを、パチ……パチ……という慎重な速度に落として、自分の足からは視線を逸らさずに返した。真紀がすぐ後ろにやってきた気配を感じる。より自分の足の先を見つめるように努めた。
「今日、どっちの服がいいと思う?」
やっぱりそう来たか……!
恋人がいる男なら、一度はこの非常に困る質問をされたことがあるのではないだろうか。
「ねえ」と急かすように言われて、俺は仕方なく振り向いた。
真紀は右手に袖がレースになっている白いシャツを、左手には袖が風船のように膨らんでいる青いシャツを持っていた。最近じゃシャツではなく「トップス」というらしいが、まあ今はそんなことはどうでもいい。
問題は「答え方を誤ると真紀の機嫌を損ねて穏やかな休日は消失する」ということだ。
だが、どっちがいいかと聞かれても。
正直に言えば、どっちでもいい。どちらの服も際立ってどうとは思わない。着用している姿も見たことがあるが、変だとは感じなかった。どちらもそれなりに似合っていた。
「どっちも可愛いよ」
一縷の望みをかけて、にこやかにそう返してみた。だが真紀は
「もう、そうじゃなくて。どっちがいい?」
と頬を膨らませた。やっぱり駄目だった。
ここで面倒なのは、例えば俺が片方の服の方が際立っていいと感じていたとして、それが正解とは限らないということだ。
俺が選んだ服が真紀の中の正解でない服だった場合、「え~? こっちぃ?」などと不機嫌になる。聞かれたから答えただけなのに、実に理不尽だ。すでに正解が決まっているなら聞くなよと心底思うが、その疑問をぶつけても機嫌を損ねる。
「選ばない」という選択肢は存在しない。だが、適当に選ぶわけにもいかない。
「こっち」と選べば「どうして?」と選択理由を聞かれる。適当に選んだものに理由なんて無いが、答えに窮すると恐ろしく敏感な女の勘に見破られ「適当に選んだでしょ」「私に興味が無いのね」とこれまた機嫌を著しく損ねることになる。今こんなに困っている俺の心境は全く察知してくれないが、そういうバレたくないことばかりは鋭敏だ。
「そうだなぁ……」
改めて、両方の服を見比べて考える。
袖がレースの白いシャツ。いやトップス。
(非常に女性的なデザインですね。清楚な雰囲気で、素敵だと思います)
そして風船みたいな袖の青いトップス。
(袖がお姫様のドレスのようで可愛いですね。素敵だと思います)
うん、これが限界だ。俺は頑張った。
果たしてどっちが真紀好みの答えだろうか。
どちらも誉め言葉のつもりなのだが、時に「なによ、そういう女が好みなの?」と、好みの服の話がいつの間にか好みの女の話にぶっ飛び、急に怒り出したりするので、こちらも慎重に選ばなければならない。
真紀は俺の返事を待っている。いつまで待たせるのよ、とでも書いてありそうな顔は明らかに苛立っている。もう決めるしかない。
「青い方かな。お姫様みたいで可愛いし」
引きつりそうになる頬で必死で笑みを作る。真紀の反応は、果たして。
「そう? じゃあ、こっちにしようっと」
当たった……!
「そう?」の少し高い声のトーンでわかる。真紀は鼻歌でも歌い出しそうな足取りで、クローゼットのある寝室へ消えた。
天井を仰ぎ、ゆっくりと息を吐く。時が止まっていたかような感覚があるが、実際は数分も経っていないのだろう。
日曜日。午前十一時過ぎ。天気、晴れ。
再び訪れた穏やかな休日に、思わず笑みがこぼれた。自分こそ鼻歌でも歌いたい気持ちになりながら、すっかり中断していた爪切りを再開した。 そんな時だった。
「ねえ、貴裕」
体が強張る。このイントネーションは。
「下はどっちがいいと思う?」
今度は振り向く覚悟をする暇もなかった。
今度は俺の目の前にやってきた真紀の手には、全く同じデザインの色違いのスカートが握られていた。
(了)