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第5回「小説でもどうぞ」佳作 伊藤博文の肖像/高橋徹

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第5回結果発表
課 題

賭け

※応募数242編
「伊藤博文の肖像」高橋徹
 還暦を迎えた年の暮れ、断捨離のつもりで若いころの雑多なものを片付けていたときのことである。高校時代の写真の中に、懐かしい人物と二人で写っている一枚を見つけた。薄汚れた学生服を着込み教室の黒板を背にして並んで立っているその写真は、誰に撮ってもらったのかまったく覚えていないが、二人ともワニ革模様の丸筒を手にしていることから卒業式の日に撮ったものだと分かる。にやけた顔をした私の右隣で口をへの字にしている彼の名前は、庄司浩輔だ。彼とは三年生で同じクラスとなり、そこで初めて互いを知ることとなった。背は私より少しだけ低く、坊主頭で丸顔の彼は、まつ毛が長いせいか目だけがやけに際立っていた。スポーツが得意で、野球部に入っていた筈だ。どういうわけだが彼とはウマが合い、恋愛や人生について、長い時間をかけて語り合った。青臭い表現だが、互いに信じ合うことができた数少ない友人だった。高校を卒業して東京の大学へ進んだ私は、それ以降一度も彼とは連絡をとっていなかった。卒業してまもなく、彼の一家が引っ越してしまい、行き先が分からなくなってしまったというのが理由だ。そして、その写真を眺めているうちに、私はほとんど消えかかっていた遠い記憶を掘り起こしたのである。
 ――そうだ、彼と賭けをしたのだった。
 何を賭けたのか、それは思い出すことができなかったが、満六十歳を迎えたとき、今日と同じ日の同じ時間にこの高校で会い、賭けに負けた方が金を払うというようなことだったと思う。金額がいくらだったのか、それも思い出すことはできなかった。卒業式がいつだったかは卒業アルバムを見れば分かるだろう。いずれにしても約束の日は来年の三月ということになる。昔の、それも高校生の頃の約束など、ほっといてもよさそうなものだったが、私は行くことを決心した。郷愁の思いもあったが、彼に会えるということに心が浮き立っていた。それに、彼ならば必ず来る、という予感もあった。義理堅い男だったのだ。
 年が明けて桜の季節が間近となった三月、数十年ぶりに故郷へ戻った私は、約束の日、高校の正門で待っていた。果たして、正午前に彼はやってきた。なんと坊主頭に学生服を着て四十二年前そのままの姿で……。いや、そんなはずはない。呆然としている私の前までやってくると、彼はペコリと頭を下げた。
「僕は庄司といいますが、失礼ですが、もしかしてあなたは……」
 彼は私の名前を口にして、そうなのかと尋ねた。そうだと答えると彼は続けた。
「実は、父は一昨年に他界しまして、代わりに僕がお約束を果たしに参りました」
「亡くなった……」
 私は動揺した。会えると信じて疑わなかった彼が、もうこの世にいないことに衝撃を受けたのである。
「はい、父は亡くなる前に、あなたとの賭けがあるので、その結果を見届けて欲しいと僕に託したのです」
「そうだったのか、君は浩輔くんの息子さんなのか……。しかし、若い頃のお父さんによく似ていらっしゃる」
「いつも言われます」と彼は頭を掻いた。その仕草は、照れた時の浩輔そのものだった。
「知っていたら、教えて欲しいのだが、実は君のお父さんと私が何を賭けたのか、忘れてしまってね。何か聞いていないかな?」
「聞いていますよ。簡単な賭けです。六十歳になった時、生きていた方が勝ち、というものです。もし、二人とも生きていたら、両方が払う。なので、この賭けは父の負けです」
 そう云って、彼は学生服の内ポケットから封筒を取り出し目の前に差し出した。
「これは、あなたのものです」
 云われるままにそれを受け取り、見てもいいかと断って中を改めた。中には、伊藤博文の肖像が描かれた新券の千円札が一枚入っていた。
「父は、ずいぶん前からこれを用意していたようです」
「ずいぶん前から?負けることが分かっていた、ということかね?」
「はい、癌でしたから……」
 それを聞いた私は、両目から涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。
「いや、そうじゃない、きっと違うんだ」
「違う?何がですか?」
 堪らず、私は彼を抱きしめた。
 ――この千円札は、私たちが高校生の頃に発行されていた古いものだ。浩輔はあのとき、もう既にこれを用意していたんだ。
 私は聞いていた。昭和二十年八月九日午前十一時二分、長崎へ投下された新型爆弾。その災禍の中に浩輔の家族がいたことを。私は浩輔が生きてきた長くも短い歳月を思った。私は、行き場のない怒りが込み上げてくるのを、腕の中で戸惑うこの少年に悟られまいと、言葉もなく涙を流し続けていた。
(了)