第5回「小説でもどうぞ」佳作 聖母の伴走/水谷まりも
第5回結果発表
課 題
賭け
※応募数242編
「聖母の伴走」水谷まりも
春の夕暮れ、息子がチューインガムをふくらませながら、台所にやってきた。
「お風呂が泣いています。とうとうと流れた慟哭は、哀しみの器に溢れんばかりにたたえられた」ガムを噛みながら息子が言った。
私は眉をひそめた。多感な十五歳を理解するのは難しい。無視して絹さやの筋取り作業を続けているとだしぬけに、強烈な蹴りが右の臀部に飛んできた。不慮の息子の攻撃に私は崩れ落ち、ハニワ顔して息子を見あげた。
「母さん。僕、ブンゴーになる。紙に神を宿すのだ。だから、左の臀部も差し出してよ」
「ぶ、ブンゴー?」
「太宰治とか三島とか文学の権化の文豪さ」
やばい、が口癖の息子が文豪。文文豪豪。
「だからさ」息子は笑った。「大事なもの、家でも燃やそうかな。文豪への道として」
「な。三島由紀夫氏だって金閣寺を燃やしちゃいないわよ。文豪になるのに、なぜ家を燃やすのよ」私は鼻息荒く反駁した。
「文豪は、良識やら倫理やら道徳やらの鎧を踏みつけて、一度地獄の底に沈まないとなれないのだ。これから、僕は異端の道を行くと決めた。愚鈍な偽善者の巣窟の学校も、いざさらばだ辞めてやる。堕落的に煩悩のおもむくままに。常識も安寧も仁も道義も蹂躙し木っ端微塵に粉砕して悪を昇華させて、新しい真理の花を文学で咲かせるのだ。」
私は戦慄しめまいがした。息子の手には見慣れぬ本。タイトルは「文豪へのいばら道」軽挙妄動、単純な息子が文学に目覚めた。惨憺たる事態に陥るのは目に見えている。凡人が血を吐きながらデカダン酔いしれ文学に励んだとて、家族もろとも恥辱の沼に引きずり込み、社会不適合者に成り下がるだけだ。
「息子よ、文豪なんて、天賦の才能と血のにじむ努力も必要なのよ。悪魔的思想が文豪に繋がるなんて、あまつさえ犯罪なんて考えは、文学への冒涜。デカダンスなんて時代錯誤よ生活破綻者こんにちわよ。文豪なんかより、田中正造やら大塩平八郎みたいに肉骨粉になる勢いで世の為に正義を貫いた偉人を目指しなさい」私は、厳然として諭した。
「正義なんて、偽善者の自慰活動だ。明るい綺麗な土に埋まっていても陳腐な花しか咲かない。地獄の沼が闇を照らす大輪の花を咲かすのだ。誰も傷つけない文豪なんていない。母さんは、息子を応援してくれるだろ。だって母さんの名前は」息子は瞼を閉じて両手をひたと合わせて言った。「マリアじゃないか」
息子の口元で再びガムが丸く膨らみ、割れた。窓から、強い西陽が差した。息子の縁どりが燃えあがった。眩しさに目が眩む。あぁ、我の名は聖母マリア。いばらの道を行く息子をただ慈悲の心で見守るしかないのか。これは、賭けだ。文学に走る息子の行末は破滅か、文豪か。息子は磔にされるためにペンを背負ってゴルゴダの丘に向かうのか。息子は私の唯一の肉親、文学に溺れ殉死など、悪夢だ。しかし私は息子に光明を見た。文豪への、光を。伴走、開始。私は左の臀部を差し出した。
それから息子は、乱れた生活に輪をかけて堕落的に暮らした。「夢で小説の着想を得ん」と日がな一日寝たり、私が大金はたいて買い揃えた文豪たちの小説全集を読まぬまま売り飛ばしたり、原稿用紙にあまたの鼻毛を薔薇状に突き立て悦に入ったり。口笛を吹きながら「一日一悪」を標榜し、周りの人間に迷惑を振りまき陥れ、伊豆の温泉でダンサーの裸を盗撮したり、幼き姪っ子に欲情したり、親友に彼女交換を強要したり、友人の家で百人前のピザを注文したり。むろん、息子の悪事に東西南北で非難轟々、息子の尻拭いに母は西に東に奔走し、腰をバネ仕掛けのごとくバッタンバッタン折り平謝り、地べたに額を発火せんばかりに擦り付けて土下座行脚。息子の体はむくむく肥大化、私の体は満身創痍の半死半生。だが私は信じた。険しき道が文豪の道に繋がると信じて血を吐きながら走った。
雪の積もった冬の日、息子は家の全財産をかっさらい、女に逢うべく列車で雪国に逃亡した。息子の部屋に散らばる原稿用紙を眺め嘆息した。ふと一枚、心揺れる題名が眼に入った。息子の原稿を読むのは初めてだ。文豪の光を求め、期待に満ちた眼を紙に泳がせた。
「聖母の音色 文豪太郎
母は、二十一個目の月見バーガーを貪りながら、店を爆破するがごとく放屁した。耳をつんざくほどの腐敗の音色に草生えた。地鳴りが轟き、笑いがめまいに転化した。俺の恋人含む周りの客が次々に吐血し倒れた。醜悪極まる豚女の、毒ガステロ。俺は、忍ばせていた金槌を鞄から取り出し、跳ね飛び、天誅!と憎悪の一撃を豚の眉間に打ちつけた。母は仰向けに倒れ豚鼻をひくつかせ絶命した。母には、屠殺場がよく似合う」
読み終わり、私は天を仰いだ。原稿用紙を拾い集め、庭で一枚残らず燃やした。ついでに、焼き芋にした。息子の紙で燻された芋は、ほっくり敗者の味がした。
(了)
「お風呂が泣いています。とうとうと流れた慟哭は、哀しみの器に溢れんばかりにたたえられた」ガムを噛みながら息子が言った。
私は眉をひそめた。多感な十五歳を理解するのは難しい。無視して絹さやの筋取り作業を続けているとだしぬけに、強烈な蹴りが右の臀部に飛んできた。不慮の息子の攻撃に私は崩れ落ち、ハニワ顔して息子を見あげた。
「母さん。僕、ブンゴーになる。紙に神を宿すのだ。だから、左の臀部も差し出してよ」
「ぶ、ブンゴー?」
「太宰治とか三島とか文学の権化の文豪さ」
やばい、が口癖の息子が文豪。文文豪豪。
「だからさ」息子は笑った。「大事なもの、家でも燃やそうかな。文豪への道として」
「な。三島由紀夫氏だって金閣寺を燃やしちゃいないわよ。文豪になるのに、なぜ家を燃やすのよ」私は鼻息荒く反駁した。
「文豪は、良識やら倫理やら道徳やらの鎧を踏みつけて、一度地獄の底に沈まないとなれないのだ。これから、僕は異端の道を行くと決めた。愚鈍な偽善者の巣窟の学校も、いざさらばだ辞めてやる。堕落的に煩悩のおもむくままに。常識も安寧も仁も道義も蹂躙し木っ端微塵に粉砕して悪を昇華させて、新しい真理の花を文学で咲かせるのだ。」
私は戦慄しめまいがした。息子の手には見慣れぬ本。タイトルは「文豪へのいばら道」軽挙妄動、単純な息子が文学に目覚めた。惨憺たる事態に陥るのは目に見えている。凡人が血を吐きながらデカダン酔いしれ文学に励んだとて、家族もろとも恥辱の沼に引きずり込み、社会不適合者に成り下がるだけだ。
「息子よ、文豪なんて、天賦の才能と血のにじむ努力も必要なのよ。悪魔的思想が文豪に繋がるなんて、あまつさえ犯罪なんて考えは、文学への冒涜。デカダンスなんて時代錯誤よ生活破綻者こんにちわよ。文豪なんかより、田中正造やら大塩平八郎みたいに肉骨粉になる勢いで世の為に正義を貫いた偉人を目指しなさい」私は、厳然として諭した。
「正義なんて、偽善者の自慰活動だ。明るい綺麗な土に埋まっていても陳腐な花しか咲かない。地獄の沼が闇を照らす大輪の花を咲かすのだ。誰も傷つけない文豪なんていない。母さんは、息子を応援してくれるだろ。だって母さんの名前は」息子は瞼を閉じて両手をひたと合わせて言った。「マリアじゃないか」
息子の口元で再びガムが丸く膨らみ、割れた。窓から、強い西陽が差した。息子の縁どりが燃えあがった。眩しさに目が眩む。あぁ、我の名は聖母マリア。いばらの道を行く息子をただ慈悲の心で見守るしかないのか。これは、賭けだ。文学に走る息子の行末は破滅か、文豪か。息子は磔にされるためにペンを背負ってゴルゴダの丘に向かうのか。息子は私の唯一の肉親、文学に溺れ殉死など、悪夢だ。しかし私は息子に光明を見た。文豪への、光を。伴走、開始。私は左の臀部を差し出した。
それから息子は、乱れた生活に輪をかけて堕落的に暮らした。「夢で小説の着想を得ん」と日がな一日寝たり、私が大金はたいて買い揃えた文豪たちの小説全集を読まぬまま売り飛ばしたり、原稿用紙にあまたの鼻毛を薔薇状に突き立て悦に入ったり。口笛を吹きながら「一日一悪」を標榜し、周りの人間に迷惑を振りまき陥れ、伊豆の温泉でダンサーの裸を盗撮したり、幼き姪っ子に欲情したり、親友に彼女交換を強要したり、友人の家で百人前のピザを注文したり。むろん、息子の悪事に東西南北で非難轟々、息子の尻拭いに母は西に東に奔走し、腰をバネ仕掛けのごとくバッタンバッタン折り平謝り、地べたに額を発火せんばかりに擦り付けて土下座行脚。息子の体はむくむく肥大化、私の体は満身創痍の半死半生。だが私は信じた。険しき道が文豪の道に繋がると信じて血を吐きながら走った。
雪の積もった冬の日、息子は家の全財産をかっさらい、女に逢うべく列車で雪国に逃亡した。息子の部屋に散らばる原稿用紙を眺め嘆息した。ふと一枚、心揺れる題名が眼に入った。息子の原稿を読むのは初めてだ。文豪の光を求め、期待に満ちた眼を紙に泳がせた。
「聖母の音色 文豪太郎
母は、二十一個目の月見バーガーを貪りながら、店を爆破するがごとく放屁した。耳をつんざくほどの腐敗の音色に草生えた。地鳴りが轟き、笑いがめまいに転化した。俺の恋人含む周りの客が次々に吐血し倒れた。醜悪極まる豚女の、毒ガステロ。俺は、忍ばせていた金槌を鞄から取り出し、跳ね飛び、天誅!と憎悪の一撃を豚の眉間に打ちつけた。母は仰向けに倒れ豚鼻をひくつかせ絶命した。母には、屠殺場がよく似合う」
読み終わり、私は天を仰いだ。原稿用紙を拾い集め、庭で一枚残らず燃やした。ついでに、焼き芋にした。息子の紙で燻された芋は、ほっくり敗者の味がした。
(了)