第20回「小説でもどうぞ」選外佳作 傘忘師 結城熊雄
第20回結果発表
課 題
お仕事
※応募数276編
選外佳作
傘忘師 結城熊雄
傘忘師 結城熊雄
「席を譲ってくれたお礼に、一つ面白い話をしてあげよう」
京浜東北線蒲田行き。僕が通学する時間帯はそれほど混んではいなかったが、じっとりと張り付くような湿気が車内を満たしていた。
浦和で乗車してきた男性に僕は席を譲った。彼は胡桃色の上等そうなスーツに同じ色のハットを被り、ステッキ傘をついていた。一目見て、老紳士と称するにこれほど相応しい人はいないのではないかと思った。その老紳士が腰を下ろすなり、柔らかな笑みを浮かべて話しかけてきたのだ。
「傘の忘れ物が年間でどれくらいあるか知っているかな?」
「さあ、一万本くらいですかね」
「約三十万本だよ」
「ええっ、そんなに?」
「もっともこれは警視庁の発表している数字だから、実際はその何倍もあるだろうね」
「僕もよく忘れますよ」
「でもおかしいと思わないかい? なんで傘ばかりこんなに忘れてしまうのか」
「まあたしかに」
「それはね……」
老紳士はにこやかに笑って自分を指さした。
「私のせいなんだよ」
訳がわからず僕はぽかんとする。
「私はサンボウシをやっているんだ」
「さんぼうし?」
「傘を忘れると書いて『傘忘師』だよ」
「それってまさか」
「傘を忘れさせるのが私の仕事だ」
「そんな仕事があるんですか?」
思わず声が上擦る。そんな話は聞いたことがない。
「最近の傘は丈夫で滅多に壊れない。傘を作る技術が向上したためだが、長持ちしすぎても傘会社が儲からないだろう。品質を落とすわけにもいかないから、傘忘師に依頼してお客に傘を忘れてきてもらうってわけさ」
一拍置き、もったいつけるように老紳士は続ける。
「どうやって忘れさせるか気になるかい? 魔法や妖術みたいな特別なものじゃない。ちょっとした心理学のテクニックを使うのさ」
どこかの国の御伽話でも聞いている気分だった。半信半疑だったが、その不思議な話を聞いてある考えが頭をよぎった。
「誰の傘でも忘れさせることができるんですか?」
「ああ、百発百中さ」
「じゃあたとえば……」
僕は一つ向こうのドアの前にいる女の子を指さした。
「あの子の傘を忘れさせることも?」
「もちろんできるよ」
彼女の傘はドアがある壁と座席の端の板との間に立て掛けてあった。
「毎日電車が同じでずっと気になっているものの、声をかけられずにいるんです」
老紳士は納得したように大きく頷く。
「なるほど、それで傘を忘れたあの子にきみが傘を差し出してあげるというわけだ」
ズバリ言い当てられ、僕は自分の顔が赤くなるのがわかった。
「私に任せておきなさい」
老紳士は品のある微笑をたたえて言った。
電車が降車駅に着いた。ドアが開き、人々が外に吐き出される。女の子の傘は車内に残っていた。それが老紳士のおかげなのか、彼女の不注意なのかはわからないが、とにかく彼女は傘を忘れた。それを確認した僕は老紳士にありがとうございますと頭を下げ、彼女の後を追った。彼女は改札を出た先で立ち止まる。傘を忘れたことに気づいたのだろう。
よし、今だ! そう思い自分の手元を見たときだ。……傘が、ない。あろうことか彼女の傘を忘れさせようとした僕自身が傘を忘れてしまったのだ。
呆然と立ちつくす僕の視線の先で、彼女は鞄から折り畳み傘を取り出した。あれ? ドアの前の傘は彼女のものじゃなかったのか? もしくは予備で折り畳み傘も持っていたのか。なんにせよ今回の作戦は失敗に終わった訳だ。僕はガックリと項垂れた。
「あの……」
最初、それが僕に向けられたものだとは思わなかった。何度も声がするので顔を上げると、彼女が僕に傘を差し出していた。
「よかったら、一緒に入りますか?」
分厚い雲の切れ間から眩い光が差し込んだかのようだった。僕は辛うじて首を縦に振る。心臓はいっそ破裂した方が楽なんじゃないかと思うほど激しく高鳴っていた。これ以上なく清々しい気分だった。ああ、こんなに晴れた雨の日を僕は知らない。
離れていく二人の後ろ姿を眺める男がいた。
「先約があったからそちらを優先させてもらったよ。まあ、結果は同じだからいいだろう」
老紳士は満足そうに笑うと、少年が忘れた傘を駅員に届けに行った。
(了)