10.18更新 VOL.11 「文藝春秋」懸賞小説 文芸公募百年史
今回は、大正14年、15年に2回実施された「文藝春秋」懸賞小説を紹介する。
第1回受賞者には山本周五郎が、第1回、第2回の予選通過者には小林多喜二がいた!
巨匠 山本周五郎、文壇デビュー
文藝春秋は大正12年、関東大震災があった年の1月に創業した。社長は文豪菊池寛だ。「文藝春秋」は氏が私財を投じ、創業と同時に刊行した雑誌であり、価格は10銭だった。「中央公論」1円、「新潮」80銭に比べると破格の安さである。巻頭は盟友芥川龍之介のエッセイ「侏儒の言葉」が飾った。文芸ファンなら絶対買うよね。
「文藝春秋」は関東大震災があっても順調に売れ、それどころか暗い世相にあってせめて読むものぐらいは明るく楽しいものがいいという需要が生まれた。そんな追い風の中、大正14年には「文藝春秋」懸賞小説が公募される。受賞者は以下の4名だった。
力石平三「父と子と」
山本周五郎「須磨寺附近」
阿川志津代「ある住家」
田島準子「密輸入」
この中でもっとも有名なのは山本周五郎賞にその名が残る山本周五郎だろう。のちに『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』を書く山本周五郎の文壇デビュー作だ。
佳作には阿部知二「乾燥する街」が入っている。阿部知二は『冬の宿』や映画化された『人工庭園』など多くの小説を残しているが、翻訳家としても著名であり、メルヴィルの『白鯨』を初めて訳した人でもある。
選外佳作には、田口タキ子「曖昧屋」という作品がある。田口タキ子はのちに『蟹工船』を書く小林多喜二だ。
芥川龍之介『トロッコ』のモデルが
受賞者の中に特筆すべき人がいる。力石平三だ。氏は神奈川県湯河原生まれで、駆け落ち同然で上京したあとは芥川龍之介の家に夫婦で出入りし、芥川に仕事の斡旋をしてもらったり、芥川が湯河原に湯治に行くときは宿泊先を手配したりし、親密に交際している。作家としては大成しなかったが、芥川の名作『トロッコ』の主人公になった。
『トロッコ』の冒頭と最後を引こう。
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。
(中略)
良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………
(芥川龍之介『トロッコ』)
『トロッコ』の良平が平三である。「妻子と一しょに東京へ出て来た」のは前述のとおり、駆け落ち同然で上京したことを指す。「校正の朱筆を握っている」はそのまんまで、力石平三は当時、出版社の校正係をしていた。
小説が本になるのも名誉だが、自分が登場する小説というのもなんとも素敵だ(悪役でなければだけど)。
第2回予選通過者に小林多喜二!
「文藝春秋」懸賞小説は大正15年にも第2回が実施された。応募総数は約1200編と多かったが該当作はなく、予選通過54編の作者名と作品名が発表されている。
この中の窪川鶴次郎はのちの文芸評論家で、妻は佐田稲子だ。また、田村俊子との情事が発覚したことがあり、このことは本連載のVOL.3に書いた。
小林多喜二は第1回に続いて第2回も応募しており、辻君子「酌婦」、郷利基「最後のもの」の2編が予選を通過している。ともにペンネームである。
第1回のときのペンネームは田口タキ子だったが、これは5歳年下の恋人の名、田口タキから来ている。
田口タキは父親の借金の
辻君子の名がどこから来ているかはわからないが、「酌婦」というタイトルからして田口タキを題材としたものだと推測できる。郷利基はそのまま「ゴーリキー」だろう。このペンネームは、北海道拓殖銀行に勤めながら『海上生活者新聞』の文芸欄を担当する記者をしていたときにも使っている。
桑田忠親も「弟を看る」という作品で予選を通過している。氏はのちの歴史学者で、国学院大学教授だ。歴史ものの著作が膨大にあり、一般向けにやさしく書いた歴史解説の著作も多いから、歴史好きなら名前ぐらいは知っているだろう。大河ドラマで歴史考証をしたこともある。小説の単行本はないが、若い頃は文学青年であったようで、入選したのは母校の国学院大学を卒業した年だった。
夢は文学的成功か文学的成金か
これで大正時代の懸賞小説が終わったわけだが、では、文学にとって大正期とはどんな時代だったのか。小説を読む人が増え、出版社が活況になり、流通量が増え、ベストセラーも出るようになった時代と言える。
山本芳明『カネと文学』の中に、新潮社の創業者、佐藤義亮の回顧録が引用されている。これを孫引きしてみよう。この文章の中で佐藤義亮は長編書き下ろしの流行の先駆をなしたのは大正5年の江馬修『受難者』とし、以下のように書いている。
天下の青年に、異常の刺戟を与え、長篇一つ当れば、『文学的成功』、もっと下品な言葉で言えば『文学的成金』になれるといった気持ちを一部青年に起さしたことは否めない。それから暫くたつと、無名の青年から、三百枚、五百枚といった作品が続々――、文字通り続々送って来られるには驚いた。(山本芳明『カネと文学』)
二匹目の
「文藝春秋」懸賞小説の応募数は第1回が約1500編、第2回が約1200編で、現在の公募文学賞と比べても遜色ないが、この背景には島田清次郎現象があっただろう。求めたのが文学的成功か文学的成金かは別として、若者が大いに夢を持って狭き門に殺到した文学バブルの時代だった。大正期が終わるとほどなく軍国主義の影が忍び寄ることを考えると、この時代はロマンのあるいい時代だったと言えよう。
文芸公募百年史バックナンバー
VOL.11 「文藝春秋」懸賞小説
VOL.10 「時事新報」懸賞短編小説
VOL.09 「新青年」懸賞探偵小説
VOL.08 大朝創刊40周年記念文芸(大正年間の朝日新聞の懸賞小説)
VOL.07 「帝国文学」「太陽」「文章世界」の懸賞小説
VOL.06 「萬朝報」懸賞小説
VOL.05 「文章倶楽部」懸賞小説
VOL.04 「新小説」懸賞小説
VOL.03 大朝1万号記念文芸
VOL.02 大阪朝日創刊25周年記念懸賞長編小説
VOL.01 歴史小説歴史脚本