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11.1更新 VOL.12 「サンデー毎日」大衆文芸 文芸公募百年史

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文芸公募百年史

VOL.12 「サンデー毎日」大衆文芸 


今回は、大正15年に始まり、昭和52年まで続く「サンデー毎日」大衆文芸」のうち、昭和10年までを振り返る。
第1回受賞者は角田喜久雄、ほか、海音寺潮五郎、井上靖、村上元三、源氏鶏太の名もあった!

ちょっと寄り道、「講談倶楽部」懸賞小説

「サンデー毎日」大衆文芸に行く前に、ちょっと寄り道。
大衆文芸という言葉は関東大震災以前はなく、震災を機に、読むものぐらい明るく前向きになれるものがいいと人気となり、これら歴史小説や通俗小説はマスコミから大衆文芸と呼ばれるようになった。
きっかけの一つが、菊池寛が提唱した「読物文芸」だ。これは小説と速記講談の中間を作ろうという提案だった。

読物文芸は、書き講談、新講談と同義語と言っていい。今で言うなら、ライトノベルと一般文芸の中間をライト文芸、キャラクター文芸と言うのと同じで、大きな違いはない。
書き講談、新講談は、落語や講談を聞いて速記し、そこから原稿を起こして活字化した速記講談に端を発する。明治30年代に流行し、明治44年には大日本雄弁会(のちの講談社)によって速記講談専門誌「講談倶楽部」(のちの「小説現代」)が創刊される。

「講談倶楽部」は速記講談に頼らない新ネタを新講談と称し、誌面から速記講談を一掃すると同時に、大正3年からは大々的に懸賞募集を行い、多くの新人を発掘する。この中に吉川英治がいた。入選したのは大正3年、入選作「江の島物語」は3等だった。
吉川英治は以降も投稿を続け、大正10年に「講談倶楽部」の姉妹誌『面白倶楽部』に「剣魔侠菩薩」を連載して作家として一本立ちするまでの間に、講談社の雑誌の懸賞小説で三度入選している。

第1回受賞者は、のちの大御所、角田喜久雄!

前置きが長くなったが、まげものが流行する中、大正11年に「サンデー毎日」が創刊される。日本最古の週刊誌の一つ(同じ年に『週刊朝日』も創刊されている)だが、当初は売れ行きが安定せず、そのため読み物(小説)を取り入れて部数の安定化を図った。巻頭を飾ったのは、歴史ものの新進作家、白井喬二の「新撰組」だった。

大正15年、大衆小説人気を受け、「サンデー毎日」大衆文芸が始まる。募集したのは新講談、探偵小説、通俗小説など。規定枚数は甲種が100枚、賞金500円、乙種が50枚、賞金250円だった。
(第6回以降は乙種のみの募集となり、賞金は300円に増額される。また、第6回から賞名が「当選」から「入選」に変わっている)
同賞は大正15年に始まり、昭和52年まで募集される。しかも、創刊15周年や創刊30周年のときにも別途、懸賞募集を行っている。一度には紹介できないので、ここでは昭和10年までを振り返ってみる。

第1回当選者は、角田つのだ喜久雄「発狂」(甲種)だった。いきなりの大物だ。
角田喜久雄は伝奇小説の草分けとして知られるが、この人もかなりの投稿マニアで、アマチュア時代に何度も入選している。
まずは大正10年、まだ10代の頃、「現代」(のちの「月刊現代」)のスポーツ小説の懸賞に応募して2等となり、大正14年には「キング」の懸賞小説に応募して「罠の罠」が入選する。大正15年に入選したのは前記の「サンデー毎日」大衆文芸だ。

「サンデー毎日」大衆文芸から離れるが、角田喜久雄は、昭和4年に報知新聞の映画小説募集に応募したものの落選したという記録がある。どんな作品かはわからないが、これを下敷きにした「妖棋伝」は、昭和7年に新潮社が創刊した大衆雑誌「日の出」で連載されている。落選は無駄ではなく、のちに手を加えればストックになるということだ。

海音寺潮五郎、井上靖も出身者

昭和4年の第5回では、海音寺潮五郎の「うたかた草子」が甲種の当選作となっている。
大河ドラマにもなった『天と地と』『平将門』の原作者としても知られる海音寺潮五郎は、中学教師をしながら創作を始め、「サンデー毎日」大衆文芸に応募する際、本名を隠すためにペンネームを考えていて眠ってしまった。すると夢の中で「海音寺潮五郎」と呼ぶ声は聞こえ、これをペンネームにしたと言う。ところが、応募時に匿名希望と書かなかったため、発表時に本名が出てしまったそうだ。北村薫さんもそうだが、現職の教師が応募するときはいろいろ気を使うらしい。

ちなみに「海音寺潮五郎」の名について本人は、上田敏の訳詩集「海潮音」や江戸時代の浄瑠璃作家、紀海音きのかいおんが無意識のうちにインプットされていたのかもと説明しているが、のちに『観音経』という法華経の「」に「梵音海潮音、勝彼世間音」とあると知る。意訳すると「観音様の声は人の世の迷いに勝つ」だが、海音寺潮五郎はこれを「人が書けないようなものを書く」と解釈したようで、傲慢なペンネームだったと驚いたそうだ。

第8回では、のちの文芸批評家、花田清輝が「七」で入選している。
井上靖も出身者だ。第13回では「三原山晴天」が佳作に、第14回(「初恋物語」)と第17回(「紅荘の悪魔たち」)ではがいずれも入選(受賞)している。この頃、井上靖は京都帝国大学生だったが、在学中から精力的に創作に打ち込み、「サンデー毎日」大衆文芸では三度も入選している。

受賞はまだある。それが昭和11年に「流転」で受賞する第1回千葉亀雄賞だ。千葉亀雄賞は、「サンデー毎日」編集長だった千葉亀雄氏の功績を顕彰し、「サンデー毎日」大衆文芸とは別に長編大衆小説を募集したもの。
選考委員は菊池寛、吉川英治、大佛おさらぎ次郎の3氏。賞金は1席1000円、2席500円で、昭和11年と昭和14年に募集されたあと、戦後、昭和24年に復活し、昭和29年まで実施されている。

井上靖はこれが縁で毎日新聞社に入社し、学芸部に配属される。その後、昭和25年に『闘牛』で芥川賞を受賞。翌年には執筆に専念するために退職し、『氷壁』など現代もの、『風林火山』など歴史もの、『敦煌』など西域ものを物する。毎日新聞文芸部時代には部下に山崎豊子がいた。

佳作の中に、村上元三と源氏鶏太

「サンデー毎日」大衆文芸は、第1回は甲種193編、乙種355編と少ないが、第6回で2000編を上まわり、第8回では3000編を超えている。選ばれる人も多く、「入選」だけで5、6名いる回もあり、佳作に至っては15名ほど選ばれていることもある。
この「入選」は当選作という意味で、受賞作は「サンデー毎日」に掲載された。たった一人を選ぶのではなく、秀作を多く取り上げ、「サンデー毎日」に掲載していくという方式だったようだ。

佳作に入った人の中には、のちの直木賞作家、村上元三の名もあり、第15回では「利根の川霧」が、第16回では「近江くづれ」が入選している。
村上元三はその後、入選はなく、梅沢昇という俳優のもとでチャンバラ映画の脚本を書いていたが、梅沢の紹介で長谷川伸に師事し、長谷川伸門下の勉強会の新鷹会しんようかいでは山岡荘八、山手樹一郎など「サンデー毎日」大衆文芸出身者と並び、上席に座った。
村上元三の『源義経』は昭和41年に大河ドラマになるが、このときはかつて脚本家だった経歴を生かし、自ら脚本も書いている。

第17回の佳作には、源氏鶏太「あすも青空」が入っている。サラリーマンのユーモア小説で著名な源氏鶏太は経理マンとして会社員をしながら創作を続け、昭和9年、「村の代表選手」が報知新聞のユーモア小説を受賞している。「サンデー毎日」で佳作入選するのはこの翌年のことだ。
源氏鶏太もなかなかの投稿マニアで、「婦人公論」の詩の募集では応募資格が「女性に限る」だったため、女性名のペンネームで応募したと言う。むむむ、これはいかん。若気の至りだろうか。受賞してしまったら大事おおごとだった。

おまけ。源氏鶏太が佳作に入った第17回の入選作の一つに、小松滋「H丸伝奇」がある。作者は井上ひさしのお父さんだ。本名は修吉。小松修吉は薬剤師を目指す一方、地方劇団「小松座」を主宰し、小説『H丸傳奇』で『サンデー毎日』大衆文芸に入賞している。同時に入選になった人に、前出井上靖(入選作「紅荘の悪魔たち」)がいた。井上靖と井上ひさしのお父さんが同時受賞なんて、なんだか機縁だ。
ちなみに、井上ひさしのひさしの名は、『H丸傳奇』の舞台となった中国の厦門アモイに由来するそうだ。

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