江戸で復活!印刷技術が広めた句読点の再出発|句読点に歴史あり。


江戸で復活!印刷技術が広めた句読点の再出発
一度は消えた句読点が再び現れ始めたのは江戸時代の初期。背景には日本の情報伝達を一変させた「印刷技術」の到来があった。
室町時代(1336年~1573年)まで、書物は手で書き写す「写本」が主流だった。それが、1549年のフランシスコ・ザビエルの来日により、日本の人々は新しい印刷技術を目にすることになる。木片に文字をを彫った「木活字」を並べて印刷する「古活字版(こかつじばん)」が誕生した。
この技術の伝来により、日本語の文体自体が整えられるようになった。さらに、江戸時代に進むと古活字版に替わって「製版本(せいはんぼん)」が現れた。これは一枚の版木にページ全体を彫り込むもので、より丈夫で大量の印刷が可能になった。
書籍が庶民の娯楽として広まるにつれ、「ここではきものをぬいでください」のように、読者の誤解を招かない工夫が求められ、「テン」や「マル」を採用することが考えられるようになった。寛永13年(1636年)の製版本には、「、」「。」がついているものが現れ、江戸前期(1700年頃)には読点として「マル」と 「・」、どちらを使った作品も登場するようになる。「。」は句末に付ける形で使われ、「・」は区切れでいちいち打たれる形で使われた。
しかし、この時点ではまだ使い方が統一されているわけではなく、「読み間違えなければよい」、という習慣に留まった。
実は読点に正解はない!句読点が“個性”になる理由
私たちが共通のルールとして句読点を使い始めたのは冒頭でも触れた明治時代後期(1900年頃)の教育が一般にまで広まってからのことだった。明治政府が義務教育を通じて句読点の打ち方を明示するまで、人々は文章が「マル」で切れることさえ、一般には広く知られていなかった。
一方、読点(テン)については現在に至るまで厳格なルールで縛られることがなかった。それはむしろ、書き手の「個性」を発揮する一つの手段ともなっている。
言文一致体を開花させた夏目漱石や正岡子規、川端康成といった文豪は、自ら口の中で文章を唱えながら執筆したという。彼らにとっての「、」は「息継ぎ」の場所であり、言葉のリズムそのものであったといえる。
作家の井上ひさし氏も著書『私家版日本語文法』の中で「もとより、句読点に関するはっきりした約束事は、現在でも存在しておらず、したがって句点(マル)と読点(テン)の各人各様、日本人の数だけ規則がある、といってもいいくらいである。」と述べている。打つ位置ひとつでシーンの静寂や登場人物の焦燥感などを表すことができる記号――。それが読点の本質ともいえる。