句読点に「正しいルール」はない。 では、なぜ私たちは“なんとなく”打てるのか?|石黒先生インタビュー


「僕は学生です」の「は」の後、読点を打ちますか? 実は正解はない。明治時代から現在に至るまで、日本語を一律に拘束する法的なルールは存在しない。それなのに、私たちは不思議と“だいたい同じ場所”に点を打つ――その謎に、国立国語研究所・一橋大学教授の石黒圭先生が答えてくれた。
句読点の「始まり」は、意外と新しい
――まずは基本的なところから伺いたいのですが、そもそも句読点はいつ頃から使われるようになったのでしょうか。今のテンとマルの形になったのも、意外と歴史が浅いと聞いたのですが。
石黒 句読点の歴史をきちんと辿ろうとすると、文字体系そのものの成立まで遡ることになります。ひらがなやカタカナが生まれたのが奈良から平安にかけて。もともと日本には文字がなく、中国から漢字を借りてきて、それを崩したり一部を抜き出したりしながら独自の文字を作っていきました。たとえばカタカナの「エ」は「工」、「カ」は「力」から来ています。
句読法として体系が整えられていくのは、やはり近代化が進んだ明治期です。それ以前にも様々な記号は存在していましたが、もっと種類が多く、今のように「テンとマル」の二つに整理されてはいませんでした。
――明治39年(1906年)に当時の文部省が「句読法案」を出しています。当時は西洋の文献がどっと入ってきた時期ですが、コンマやピリオドの影響は大きかったのでしょうか。
石黒 おそらくそうだと思います。江戸末期から明治にかけて欧米の文献が流入してきて、それを日本語で書き表す必要が生じた。コンマとピリオドの影響を受けながら試行錯誤を経て、今の句読点の体系が形作られていったのでしょう。ただ、当時は白抜き点など今とは違う記号もあって、テンとマルの「二択」に整理されるまでには、それなりの時間がかかっています。
――明治39年より前の新聞や書物を見ると、句読点がほとんど使われていないものもあるようで。なぜ政府も厳密なルールとして決め切れなかったのでしょうか。
石黒 当時は漢字をどの程度使うか、仮名文字の会やローマ字の会といった異なる文字体系を推進する運動もあって、文字体系そのものの議論が続いていたんです。郵便の父と言われる前島密は幕末に「漢字御廃止之議」という建議書を提出し、漢字廃止を唱えたほどで。その混沌のなかで「漢字仮名交じり文にしよう」という方向性をまとめるのが精一杯で、テンやマルの細かいルールまで決める余裕はなかったのだと思います。
なぜ日本語の句読点には、厳格なルールがないのか
――今も句読点のルールは「目安」程度にとどまっています。主語の後に打ってもいいし打たなくてもいい、という感じで。なぜ厳密に決めないのでしょうか。
石黒 根本的な話をすると、日本には「公用語は日本語とする」という法律が存在しないんです。
――えっ、そうなんですか?
石黒 ないんですよ。日本語で書くというのはデフォルトで、わざわざ定義する必要がないとされてきた。アメリカも実は英語を連邦法で公用語と定めてはきませんでしたが、あちらは多民族国家という建国の理念に基づく理由があります。また、最近になって、トランプ政権が2025年3月、英語を合衆国の公用語とする大統領令を出しています。いずれにせよ、「日本語で書く」という大枠すら法律ではなく慣習に基づいている国で、句読点の細かいルールを法的に定めるというのは、そもそも土台がない話なんです。
常用漢字表も同じ構造です。「この範囲で漢字を使うのが望ましい」とは言っているけれど、「この漢字をひらがなに書き換えなければならない」とは言っていない。句読点も同様で、「こういう場合には打つことができる」という目安はあっても、「必ず打たなければならない」というルールにはなっていない。
――仮に今、国が強制力のあるルールを作ろうとしたら、どうなるでしょうか。
石黒 間違いなく国民的な反発があると思います。井上ひさしも著作のなかで「政府が作家に読点のルールを押し付けるのは絶対にやめてほしい」と書いているほどで。表現の自由とも絡む問題ですし、「ある程度は自由裁量に任せた方が味わいが出る」と多くの人が感じている。おそらくこれからも厳格なルールは生まれないでしょう。
読点の実験が明かした「3種類の読点」
――ルールはないとはいえ、なんとなく「みんなが打つ場所」はある気がします。たとえば主語の後とか、意味の切れ目とか。先生はそれを実際に研究されたと聞きました。
石黒 一橋大学の授業で、読点を一切省いた文章を学生さんに渡して「読みやすいように読点を打ちなさい」という課題を出していたんです。247名に打ってもらって、どこに打つか集計してみると、面白いことが見えてきました。
――どんなことがわかったんでしょうか。
石黒 まず、全員が一致して打つ場所はありませんでした。ただ、80%以上の学生が打つ箇所というのは確かに存在します。それを分析すると、読点には大きく3種類あることがわかってきました。
一つ目は「文法のテン」。係り受けの関係を明確にするためのテンや、「~するが」「~するし」や、連用中止形「~し」の後、ひらがなが長く連続して見にくい箇所などでは、80%以上の学生がテンを打っています。これはほぼルールと言っていいです。
二つ目が「文体のテン」。打っても打たなくてもどちらでもよいが、その人の「書き癖」が出る箇所です。30〜70%程度の学生が打ちます。
三つ目が「修辞のテン」。普通は打たないけれど、打つことで強調や余韻の効果が生まれる箇所です。打つのは10%前後。太宰治の文体はこの修辞のテンが多いんです。「見ると、雪。」(『富嶽百景』)のテンのように。
――主語の後に打つ人が多い、というのは正しいですか?
石黒 主語の後でも、主語が短ければほとんどの人は打ちません。主語が長い場合に打つ人が増える。「主語だから打つ」のではなく「長いから打つ」が正確なんです。
読点を打つ動機は長さのほかに、意味の切れ目、ひらがなが連続して見にくいとき、係り受けの構造を明確にしたいとき、といった様々な要因が絡み合っていて、そういった「テンを打つ動機」が重なるほど打つ確率が上がる。一番打つ確率が高かった箇所は247人中239人で、文が長く、逆接の「が」があり、意味の切れ目も深いという、条件が全部揃った箇所でした。

外国人留学生が「怒った」日本語のルーズさ
――石黒先生のところには留学生も多いと思いますが、日本語のこうしたルーズさは、外国人の目にはどう映るのでしょうか。
石黒 日本語がよくできる留学生には怒られます(笑)。一橋大学の授業に、ロシア語が母語のロシア人とウクライナ人の学生がいたことがあって、二人とも「なんで日本人はこんないい加減なんだ」と怒っていました。ロシア語では句読点の使い方を徹底的に教育するそうで、曖昧な日本語の扱いが許せないと。
――逆に、日本語の感覚に近い言語はあるんでしょうか。
石黒 一番近いのは韓国語です。語順が似ているので、感覚的なズレが少ない。一方、中国語話者は日本語のマルを打つ場所でテンを打ちやすい、という傾向があります。言語ごとにズレのパターンが違うので、留学生への指導は「あなたの言語との差分だけ伝える」という形でやっています。
「マルハラ」の正体——媒体が読点を決める時代
――SNSやLINEでは、句読点の使われ方がずいぶん変わってきていますよね。たとえば出版社ではクエスチョンマークの後に全角スペースを入れるのが慣例ですが、SNSではほとんどの人が開けていない。これはクエスチョンマークそのものを句点代わりに使っているということでしょうか。
石黒 その通りだと思います。句点の「。」は文字スペースの左下の領域に収まるので、右側に視覚的な余白ができて次の文との切れ目が自然にわかる。ところが「?」や「!」は一マスの中央に堂々と居座るので、余白が生まれない。だから読みにくくなる。スペースを開けた方が親切なんですが、若い方たちはそこよりも「打ち込みの経済性」を優先する。面倒くさいことはしない、という感覚ですね。
――マンガの吹き出しでも、長いセリフでないかぎりほとんど句読点がないですよね。あれも同じ理由でしょうか。
石黒 そうです。テンが力を発揮するのは、だいたい35文字×30行ぐらいの「普通の文章」の世界です。ある程度の長さがあって初めて、テンが視覚的な切れ目として機能する。吹き出しは10数文字×数行の世界で、しかも基本的には話し言葉。吹き出し自体がすでに「文の単位」として機能しているので、そこにテンマルを打つ必要がない。媒体がテンの必要性を決めていくんです。
LINEの「マルハラ」もそういう文脈で考えると理解できます。既読機能があり、見た目として吹き出しの中に発言があり改行も短い。このような短文主体のやり取りで、「。」を打つのは冷たい、怒っているという感覚が生まれた。これは若者のわがままではなく、媒体とコミュニケーション文化の変化が生んだ現象です。ルールで決まっていない以上、慣習の影響力はとても大きい。みんながそうすれば、それが新しい標準になっていくということです。
100年後、句読点は生き残るか
――最後に将来の話を伺いたいのですが、100年後、句読点はどうなっていると思いますか。個人的には縦書きはなくなっていそうだし、役割ごとに記号が分化したり、分かち書きが広まったりするのかなと想像しているのですが。
石黒 逆に聞いてもいいですか。100年後に、今のような「文章」そのものが残っていると思いますか?
――たしかに……それ自体がわからないですよね。
石黒 そこが一番の問題で。35字×30行のような文章の形式が100年後も残っているかどうか。縦書きはほぼなくなるでしょう。生成AIが何でも要約しようとするように、長い文章をそもそも読まなくなるかもしれない。段落という概念さえなくなるかもしれない。文章の「場」が変われば、そこに存在する句読点の意味も変わります。
私の見立てでは、本や公用文といった「フォーマルな世界」では保守的に残ると思います。ただ「カジュアルな世界」では相当変容する。フリック入力の予測変換で「よ」と打てば「よろしくお願いします」が出てくる時代に、わざわざテンを選んで打つかどうか。もしスペースの方が楽だということになれば、読点の代わりにスペースが普及するかもしれない。今だって三点リーダー一つとっても、本来の記号を使う人、ナカグロを三つ並べる人、テンを三つ並べる人と様々ですよね。人は楽な方向に向かう。技術がそれを後押しする。カジュアルな読点の世界は、これからも変わり続けるんじゃないかと思っています。
石黒 圭(いしぐろ けい)
国立国語研究所教授。一橋大学大学院言語社会研究科連携教授。著書に『本物の読解力』(SBクリエイティブ)、『文章は接続詞で決まる』(光文社新書)など多数。